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92. 内裏は、五節の頃こそ |
本文 |
現代語訳 |
内裏は、五節の頃こそ、すずろにただなべて、見ゆる人心をかしうおぼゆれ。主殿司などの、色々のさいでを、物忌のやうにて釵子につけたるなども、めづらしう見ゆ。宣耀殿の反橋に、元結のむら濃いとけざやかにて出でゐたるも、さまざまにつけてをかしうのみぞある。上の雑仕、人のもとなるわらはべも、いみじき色ふしと思ひたる、ことわりなり。山藍・日かげなど、柳筥に入れて、かうぶりしたる男など持てありくなど、いとをかしう見ゆ。殿上人の、直衣ぬぎたれて、扇やなにやと拍子にして、「つかさまさりとしきなみぞ立つ」といふ歌をうたひて、局どもの前わたる、いみじう、立ち馴れたらん心地もさわぎぬべしかし。まいて、さとひとたびにうちわらひなどしたる程、おそろし。行事の蔵人の掻練襲、ものよりことにきよらに見ゆ。褥など敷きたれど、なかなかえものぼりゐず、女房の出でゐたるさまほめそしり、この頃はこと事なかめり。 |
内裏は五節の祭礼こそが、何となくただもうすべて、見る人の心に趣深く思えるものだ。主殿司よりの、色さまざまの小ぎれをまるで物忌みのようにかんざしに付けるのも、素晴らしく見える。宣耀殿の反った橋に、元結のまだら染をくっきり浮き上らせているのも、色々つけてそれはもうなんとも趣深い。殿上の雑役の女官、他家の童女で仮に殿上に奉仕している者も、たいした晴れがましさだと思っているのも尤もだ。山藍・ひかげのかずらなどを、柳の箱に入れて、五位に叙し殿上を下りた男など、持って歩くなどとても趣深く見える。殿上人などの、直衣の片肩をぬぎ下に垂れて、扇とか何とかで拍子をとって、「つかさまさりとしきなみぞ立つ」という歌を歌って、局どもの前を渡るのも、実にすばらしく、長年宮仕した人でも胸が轟くに違いない。まして、さっと一時に大笑いなどした時は、なみなみでない。行事奉行の表裏とも紅の練絹で製した下襲は、特別に清らかに見える。褥などを敷くが、かえってその上にのぼって坐りもできず、女房が端に出ている様のよしあしを批評し、この頃は五節以外のことは何もないようだ。
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帳臺の夜、行事の蔵人のいときびしうもてなして、かいつくろひふたり、童よりほかには、すべて入るまじと戸をおさへて、おもにくきまでいへば、殿上人なども、「なほこれ一人は」などのたまふを、「うらやみありて、いかでか」など、かたくいふに、宮の女房の廿人ばかり、蔵人をなにともせず、戸をおしあけてさめき入れば、あきれて、「いとこは、ずちなき世かな」とて、立てるもをかし。それにつきてぞ、かしづきどももみな入る、けしきいとねたげなり。上もおはしまして、をかしと御覧じおはしますらんかし。 |
帳台の試の夜、舞姫の世話をする女房が、たいそう厳しくもてなして、飼いならす一人二人、幼子の他には、すべて入れないように戸を抑えて、つらにくい程にいうので、殿上人なども「それでも私一人だけは」と、おっしゃるのに、「恨みっこが生じまして、とてもできません。」など、固く言うが、宮の女房が二十人ばかりが、蔵人を何ともせず、戸を押し開けてざわめきながら入るので、あきれて、「実にこれは、むたいなことですな」と言ってお立ちになるのも面白い。それに続いて舞姫の世話をする女房も、みな入る。それを見守る蔵人の様子は大層くやしげだ。主上もそこにおいでになって、面白いとご覧になっているようである。
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童舞の夜はいとをかし。燈臺にむかひたる顔どももらうたげなり。 |
童御覧の儀の夜は、大変趣深い。灯台に向かう顔顔も、たいそうかわいらしい。 |
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