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93. 無名といふ琵琶の御琴を |
本文 |
現代語訳 |
無名といふ琵琶の御琴を、上の持てわたらせ給へる、みなどしてかき鳴らしなどする、といへば、彈くにはあらで、緒などを手まさぐりにして「これが名よ、いかに」とかきこえさするに、「ただいとはかなく、名もなし」とのたまはせたるは、なほいとめでたしとこそおぼえしか。 |
「名無し」という琵琶のお琴を、主上が中宮のもとへよこしてきたので、試みなどしてかき鳴らしなどする、と言っても、弾くとかいうことではなくて、(私は)緒などを「これの名はまあ、何と申しますか」とお聞きすると、「ただ何ということもなく、名もないのですよ」と、おっしゃることは、なおたいそう立派なことだと思われるようだ。 |
淑景舍などわたり給ひて、御物語のついでに、「まろがもとに、いとをかしげなる笙の笛こそあれ。故殿の得させ給へりし」とのたまふを、僧都の君、「それは隆圓に賜へ。おのがもとにめでたき琴侍り。それに代へさせ給へ」と申し給ふを、聞きも入れ給はで、こと事をのたまふに、いらへさせ奉らんと、あまたたびきこえ給ふに、なほものものたまはねば、宮の御前の、「いなかへじと思いたるものを」とのたまはせたる、御けしきのいみじうをかしきことぞかぎりなき。 |
淑景舍などがいらっしゃって、お話のついでに、「私のもとに、たいそう立派な笙の笛があるの。亡き父君が下さいましたの。」とおっしゃるので、隆円僧都の君は、「それは私に下さいませ。私の所にすばらしい七絃琴がございます。それにお取替えしなされ」と、申しあげるのに(淑景舍は)お聞き入れもなく他の話をされるのに、僧都は何とかしてお返事いただこうと、くり返しお願い申される、それでも何もおっしゃらないので、中宮が「取り替えまいと思っているものを」とおっしゃるご様子は大変立派で限りがない。
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この御笛の名を、僧都の君もえ知り給はざりければ、ただうらめしとぞ思いためる。これは、職の御曹司におはしまいし程の事なめり。上の御前に、「いなかへじ」といふ御笛のさぶらふなり。 |
この笛の名を、僧都の君も全く知ることができなかったので、僧都は一途に恨めしいと思われたらしい。この事は中宮が職の御曹司におられた時の出来事と思う。主上のお手許に「いなかへじ」というお笛があるからだ。 |
御前にさぶらふものは、御琴も御笛も、みなめづらしき名つきてぞある。玄象、牧馬、井手。渭橋、無名など。また、和琴なども、朽目、鹽竈、二貫などぞきこゆる。水龍、小水龍、宇陀の法師、釘打、葉二つ、なにくれなど、おほく聞きしかどかすれにけり。「宜陽殿の一の棚に」という言ぐさは、頭の中将こそし給ひしか。 |
主上のお手許にあるものは、御琴も御笛も、みな珍しい名がついている。(琵琶には)玄象、牧馬、井手。渭橋、無名など。また、和琴なども、朽目、鹽竈、二貫など聞こえる。(笛には) 水龍、小水龍、宇陀の法師(これは和琴)、釘打、葉二つ、その他なにやかや沢山聞いたけれどもう忘れてしまった。 「宜陽殿の一の棚に」という言ぐさは、頭の中将(藤原斉信?)が口癖にしたことである。 |
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