桐壷   第二章 父帝悲秋の物語
2.靫負命婦の弔問
  本文  現代語訳
 野分立ちて、にはかに肌寒き夕暮のほど、常よりも思し出づること多くて、靫負命婦といふを遣はす。夕月夜のをかしきほどに出だし立てさせたまひて、やがて眺めおはします。かうやうの折は、御遊びなどせさせたまひしに、心ことなる物の音を掻き鳴らし、はかなく聞こえ出づる言の葉も、人よりはことなりしけはひ容貌の、面影につと添ひて思さるるにも、闇の現にはなほ劣りけり  台風が吹く頃になって、急に肌寒くなった夕暮れ時、いつもよりもお思い出しになることが多くて、靫負命婦という者をお遣わしになる。夕月夜の美しい時刻に出立させなさって、そのまま物思いに耽っておいでになる。このような折には、管弦の御遊などを催しになられたが、とりわけ優れた琴の音を掻き鳴らし、ついちょっと申し上げる言葉も、人とは異なった顔かたちが、面影となって、ふと添うように思いなさるにつけても、闇の中の現実にはやはり及ばないのであった。
 命婦、かしこに参で着きて、門引き入るるより、けはひあはれなり。やもめ住みなれど、人一人の御かしづきに、とかくつくろひ立てて、めやすきほどにて過ぐしたまひつる、闇に暮れて臥し沈みたまへるほどに、草も高くなり、野分にいとど荒れたる心地して、月影ばかりぞ八重葎にも障はらず差し入りたる。南面に下ろして、母君も、とみにえものものたまはず。  命婦は、あちらに到着して、門を潜り入るなり、様子は哀れ深い。未亡人暮らしであるが、娘一人を大切にお世話するために、あれこれと手入れをきちんとして、見苦しくないようにしてお暮らしになっていたが、亡き子を思う悲しみに暮れて臥せっていらっしゃったうちに、雑草も高くなり、台風のためにいっそう荒れたような感じがして、月の光だけが八重葎にも遮られずに差し込んでいた。寝殿の南面で車から下ろして、母君も、すぐにはご挨拶できない。
今までとまりはべるがいと憂きを、かかる御使の蓬生の露分け入りたまふにつけても、いと恥づかしうなむ」
とて、
げにえ堪ふまじく泣いたまふ
 「今まで生きながらえておりましたのがとても情けないのに、このようなお勅使が草深い宿の露を分けてお訪ね下さるにつけても、とても恥ずかしうございます」
と言って、ほんとうに身を持ちこらえられないくらいにお泣きになる。
「『参りては、いとど心苦しう、心肝も尽くるやうになむ』と、典侍奏したまひしを、もの思うたまへ知らぬ心地にも、げにこそいと忍びがたうはべりけれ」
とて、
ややためらひて仰せ言伝へきこゆ。
 「『参上いたしたところ、ひとしおお気の毒で、心も魂も消え入るようでした』と、典侍が奏上なさったが、物の情趣を理解いたさぬ者でも、なるほどまことに忍びがとうございます」
と言って、少し気持ちを落ち着かせてから、仰せ言をお伝え申し上げる。
  「『しばしは夢かとのみたどられしを、やうやう思ひ静まるにしも、覚むべき方なく堪へがたきは、いかにすべきわざにかとも、問ひあはすべき人だになきを忍びては参りたまひなむや。若宮のいとおぼつかなく、露けき中に過ぐしたまふも、心苦しう思さるるをとく参りたまへなど、はかばかしうものたまはせやらず、むせかへらせたまひつつ、かつは人も心弱く見たてまつるらむと、思しつつまぬにしもあらぬ御気色の心苦しさに、承り果てぬやうにてなむ、まかではべりぬる」   「『しばらくの間は夢かとばかり思い辿られずにはいられなかったが、だんだんと心が静まるにつれてかえって、覚めるはずもなく堪えがたいのは、どのようにしたらよいものかとも、相談できる相手さえいないので、人目につかないようにして参内なさらぬか。若宮がたいそう気がかりで、湿っぽい所でお過ごしになるのも、気がかりに思いあそばされますから、早く参内なさい』などと、はきはきとは最後まで仰せられず、涙にむせばされながら、また一方では人びともお気弱だと見なさるだろうと、お思いなされないわけではない御様子がおいたわしくて、最後まで承らないようなかっこうで、退出いたして参りました」
 とて、御文奉る  と言って、お手紙を差し上げる。
 目も見えはべらぬに、かくかしこき仰せ言を光にてなむ」とて、見たまふ。   「目も見えませんが、このような畏れ多いお言葉を光といたしまして」と言って、御覧になる。
  「ほど経ばすこしうち紛るることもやと、待ち過ぐす月日に添へて、いと忍びがたきはわりなきわざになむ。いはけなき人をいかにと思ひやりつつ、もろともに育まぬおぼつかなさを。今は、なほ昔のかたみになずらへて、ものしたまへ」   「時がたてば少しは気持ちの紛れることもあろうかと、心待ちに過す月日がたつにつれて、たいそうがまんができなくなるのはどうにもならないことである。幼い人をどうしているかと案じながら、一緒にお育てしていない気がかりさよ。今は、やはり故人の形見と思って、参内なされよ」
 など、こまやかに書かせたまへり。  などと、心こまやかにお書きなさっていた。
 宮城野の露吹きむすぶ風の音

 小萩がもとを思いこそやれ

 「宮中の萩に野分が吹いて露を結ばせたり散らそうとする風の音を聞くにつけ、  幼子の身が思いやられる」
 とあれど、え見たまひ果てず。  とあるが、最後までお読みになれない。
  「命長さの、いとつらう思うたまへ知らるるに、松の思はむことだに、恥づかし 思うたまへはべれば百敷に行きかひはべらむことは、ましていと憚り多くなむ。かしこき仰せ言をたびたび承りながら、みづからはえなむ思ひたまへたつまじき。若宮は、いかに思ほし知るにか、参りたまはむことをのみなむ思し急ぐめればことわりに悲しう見たてまつりはべるなど、うちうちに思うたまふるさまを奏したまへ。ゆゆしき身にはべれば、かくておはしますも、忌ま忌ましうかたじけなくなむ」   「長生きが、とても辛いことだと存じられますうえに、松がどう思うかさえも、恥ずかしう存じられますので、内裏にお出入りいたしますことは、さらにとても遠慮いたしたい気持ちでいっぱいです。畏れ多い仰せ言をたびたび承りながらも、わたし自身はとても思い立つことができません。若宮は、どのようにお考えなさっているのか、参内なさることばかりお急ぎになるようなので、ごもっともだと悲しく拝見しておりますなどと、ひそかに存じておりますゆえを申し上げてください。不吉な身でございますので、こうして若宮がおいでになるのも、忌まわしくもあり畏れ多いことでございます」
 とのたまふ。宮は大殿籠もりにけり。  とおっしゃる。若宮はもうお休みになっていた。
  「見たてまつりて、くはし御ありさまも奏しはべらまほしきを、待ちおはしますらむに夜更けはべりぬべしとて急ぐ   「拝見して、詳しくご様子も奏上いたしたいのですが、帝がお待ちあそばされていることでしょうし、夜も更けてしまいましょう」と言って急ぐ。
  「暮れまどふ心の闇も堪へがたき片端をだに、はるくばかりに聞こえまほしうはべるを、私にも心のどかにまかでたまへ。年ごろ、うれしく面だたしきついでにて立ち寄りたまひしものを、かかる御消息にて見たてまつる、返す返すつれなき命にもはべるかな。   「子を思う親心の悲しみの堪えがたいその一部だけでも、晴らすほどに申し上げとうございますので、個人的にでもゆっくりとお出でくださいませ。数年来、おめでたく晴れがましい時にお立ち寄りくださいましたのに、このようなお悔やみのお使いとしてお目にかかるとは、返す返す情けない運命でございますこと。
  生まれし時より思ふ心ありし人にて故大納言、いまはとなるまで、『ただ、この人の宮仕への本意、かならず遂げさせたてまつれ。我れ亡くなりぬとて、口惜しう思ひくづほるな』と、返す返す諌めおかれはべりしかば、はかばかしう後見思ふ人もなき交じらひは、なかなかなるべきことと思ひたまへながら、ただかの遺言を違へじとばかりに、出だし立てはべりしを、身に余るまでの御心ざしの、よろづにかたじけなきに、人げなき恥を隠しつつ、交じらひたまふめりつるを、人の嫉み深く積もり、安からぬこと多くなり添ひはべりつるに、横様なるやうにて、つひにかくなりはべりぬれば、かへりてはつらくなむ、かしこき御心ざしを思ひたまへられはべる。これもわりなき心の闇になむ」   生まれた時から、心中に期待するところのあった人で、亡き夫大納言が、臨終の際となるまで、『ともかく、わが娘の宮仕えの宿願を、きっと実現させ申しなさい。わたしが亡くなったからといって、落胆して挫けてはならぬ』と、繰り返し戒め遺かれましたので、これといった後見人のない宮仕え生活は、かえってしないほうがましだと存じながらも、ただあの遺言に背くまいとばかりに、出仕させましたところ、身に余るほどのお情けが、いろいろとかたじけないので、人にあるまじき恥を隠し隠ししては、宮仕え生活をしていられたようでしたが、人の嫉みが深く積もり重なり、心痛むことが多く身に添わってまいりましたところ、尋常ではないありさまで、とうとうこのようなことになってしまいましたので、かえって辛いことだと、その畏れ多いお情けを存じております。これも理屈では割りきれない親心の迷いです」
 と、言ひもやらずむせかへりたまふほどに、夜も更けぬ。  と、最後まで言えないで涙に咽んでいらっしゃるうちに、夜も更けてしまった。
  「主上もしかなむ。『我が御心ながら、あながちに人目おどろくばかり思されしも長かるまじきなりけりと、今はつらかりける人の契りになむ。世にいささかも人の心を曲げたることはあらじと思ふを、ただこの人のゆゑにて、あまたさるまじき人の恨みを負ひし果て果ては、かううち捨てられて、心をさめむ方なきに、いとど人悪ろうかたくなになり果つるも、前の世ゆかしうなむ』とうち返しつつ、御しほたれがちにのみおはします」と語りて尽きせず。泣く泣く、「夜いたう更けぬれば、今宵過ぐさず、御返り奏せむ」と急ぎ参る   「主上様もご同様でございまして。『御自分のお心ながら、強引に周囲の人が目を見張るほど御寵愛なさったのも、長くは続きそうにない運命だったからなのだなあと、今となってはかえって辛い人との宿縁であった。決して少しも人の心を傷つけたようなことはあるまいと思うのに、ただこの人との縁が原因で、たくさんの恨みを負うなずのない人が恨みを負ったあげくには、このように先立たれて、心静めるすべもないところに、ますます体裁悪く愚か者になってしまったのも、前世がどんなであったのかと知りたい』と何度も仰せられては、いつもお涙がちばかりでいらっしゃいます」と話しても尽きない。泣く泣く、「夜がたいそう更けてしまったので、今夜のうちに、ご報告をしよう」と急いで帰参する。
  月は入り方の、空清う澄みわたれるに、風いと涼しくなりて、草むらの虫の声ごゑもよほし顔なるも、いと立ち離れにくき草のもとなり。   月は入り方で、空が清く澄みわたっているうえに、風がとても涼しくなって、草むらの虫の声ごえが、涙を誘わせるのも、まことに立ち去りがたい庭の風情である。
  「鈴虫の声の限りを尽くして

  長き夜あかずふる涙かな」

  「鈴虫が声をせいいっぱい鳴き振るわせても長い秋の夜を尽きることなく流れる涙でございますこと」
 えも乗りやらず  お車に乗りかねている。
 いとどしく虫の音しげき浅茅生に露置き添ふる雲の上人

 かごとも聞こえつべくなむ」

  「ただでさえ虫の音のように泣き暮らしておりました荒れ宿に、さらに涙をもたらします内裏からのお使い人よ、恨み言もつい申し上げてしまいそうで」
 と言はせたまふ。をかしき御贈り物などあるべき折にもあらねば、ただかの御形見にとて、かかる用もやと残したまへりける御装束一領、御髪上げ調度めく物添へたまふ。  と言わせなさる。趣きのあるような御贈物がなければならない時でもないので、ただ亡き更衣の形見にと、このような入用もあるかとお残しになった御衣装一揃いに、御髪上げの調度のような物をお添えになる。
  若き人びと、悲しきことはさらにも言はず、内裏わたりを朝夕にならひて、いとさうざうしく、主上の御ありさまなど思ひ出できこゆれば、とく参りたまはむことをそそのかしきこゆれど、「かく忌ま忌ましき身 添ひたてまつらむも、いと人聞き憂かるべし、また、見たてまつらでしばしもあらむは、いとうしろめたう」思ひきこえたまひて、すがすがともえ参らせたてまつりたまはぬなりけり。   若い女房たちは、悲しいことは言うまでもない、内裏の生活を朝な夕なと馴れ親しんでいるので、たいそう心さびしく、主上のご様子などをお思い出し申し上げると、早く参内なさるようにとお勧め申し上げるが、「このように忌まわしい身が付き随って参内申すようなのも、まことに世間の聞こえが悪いであろう。また、しばしも参内せずにいることも気がかりに」お思い申し上げなさって、気分よくさっぱりとは参内させなさることがおできになれないのであった。