第三章 紫上の物語(2) 若紫の君、源氏の二条院邸に盗み出される物語
2.尼君死去し寂寥と孤独の日々
本文 |
現代語訳 |
十月に朱雀院の行幸あるべし。舞人など、やむごとなき家の子ども、上達部、殿上人どもなども、その方につきづきしきは、みな選らせたまへれば、親王達、大臣よりはじめて、とりどりの才ども習ひたまふ、いとまなし。 |
神無月に朱雀院への行幸が予定されている。舞人などを、高貴な家柄の子弟や、上達部、殿上人たちなどの、その方面で適当な人々は、皆お選びあそばされたので、親王たちや、大臣をはじめとして、それぞれ伎芸を練習をなさり、暇がない。 |
山里人にも、久しく訪れたまはざりけるを、思し出でて、ふりはへ遣はしたりければ、僧都の返り事のみあり。 |
山里の人にも、久しくご無沙汰なさっていたのを、お思い出しになって、わざわざお遣わしになったところ、僧都の返事だけがある。 |
「立ちぬる月の二十日のほどになむ、つひに空しく見たまへなして、世間の道理なれど、悲しび思ひたまふる」 |
「先月の二十日ごろに、とうとう臨終をお見届けいたしまして、人の世の宿命だが、悲しく存じられます」 |
などあるを見たまふに、世の中のはかなさもあはれに、「うしろめたげに思へりし人もいかならむ。幼きほどに、恋ひやすらむ。故御息所に後れたてまつりし」など、はかばかしからねど、思ひ出でて、浅からずとぶらひたまへり。少納言、ゆゑなからず御返りなど聞こえたり。 |
などとあるのを御覧になると、世の中の無常をしみじみと思われて、「心配していた人もどうしているだろう。子供心にも、尼君を恋い慕っているだろうか。わたしも亡き母御息所に先立たれた頃には」などと、はっきりとではないが、思い出して、丁重にお弔いなさった。少納言の乳母が、心得のある返礼などを申し上げた。 |
忌みなど過ぎて京の殿になど聞きたまへば、ほど経て、みづから、のどかなる夜おはしたり。いとすごげに荒れたる所の、人少ななるに、いかに幼き人恐ろしからむと見ゆ。例の所に入れたてまつりて、少納言、御ありさまなど、うち泣きつつ聞こえ続くるに、あいなう、御袖もただならず。 |
忌みなどが明けて京の邸に戻られたなどとお聞きになったので、暫くしてから、ご自身で、お暇な夜にお出かけになった。まことにぞっとするくらい荒れた所で、人気も少ないので、どんなに小さい子には怖いことだろうと思われる。いつもの所にお通し申して、少納言が、ご臨終の有様などを、泣きながらお話申し上げると、他人事ながら、お袖も涙でつい濡れる。 |
「宮に渡したてまつらむとはべるめるを、『故姫君の、いと情けなく憂きものに思ひきこえたまへりしに、いとむげに児ならぬ齢の、まだはかばかしう人のおもむけをも見知りたまはず、中空なる御ほどにて、あまたものしたまふなる中の、あなづらはしき人にてや交じりたまはむ』など、過ぎたまひぬるも、世とともに思し嘆きつること、しるきこと多くはべるに、かくかたじけなきなげの御言の葉は、後の御心もたどりきこえさせず、いとうれしう思ひたまへられぬべき折節にはべりながら、すこしもなぞらひなるさまにもものしたまはず、御年よりも若びてならひたまへれば、いとかたはらいたくはべる」と聞こゆ。 |
「父兵部卿宮邸にお引き取り申し上げようとの事でございますようですが、『亡き姫君が、北の方をとても情愛のない嫌な人とお思い申していらしたのに、まったく子供というほどでもないお年で、まだしっかりと人の意向を聞き分けることもおできになれず、中途半端なお年頃で、大勢いらっしゃるという中で、軽んじられてお過ごしになるのではないか』などと、お亡くなりになった尼上も、始終ご心配されていらしたこと、明白なことが多くございましたので、このようにもったいないかりそめのお言葉は、後々のご配慮までもご推察申さずに、とても嬉しく存ぜずにはいられない時ではございますが、全く相応しい年頃でいらっしゃらないし、お年のわりには幼くていらっしゃいますので、とても見ていられない状態でございます」と申し上げる。 |
「何か、かう繰り返し聞こえ知らする心のほどを、つつみたまふらむ。その言ふかひなき御心のありさまの、あはれにゆかしうおぼえたまふも、契りことになむ、心ながら思ひ知られける。なほ、人伝てならで、聞こえ知らせばや。 |
「どうして、このように繰り返して申し上げている気持ちを、気兼ねなさるのでしょう。その、幼いお考えの様子がかわいく愛しく思われなさるのも、宿縁が特別なものと、わたしの心には自然と思われてくるのです。やはり、人を介してではなく、直接お伝え申し上げたい。 |
あしわかの浦にみるめはかたくとも こは立ちながらかへる波かは めざましからむ」とのたまへば、 |
若君にお目にかかることは難しかろうとも 和歌の浦の波のようにこのまま立ち帰ることはしません 失礼でしょう」とおっしゃると、 |
「げにこそ、いとかしこけれ」とて、 |
「なるほど、恐れ多いこと」と言って、 |
「寄る波の心も知らでわかの浦に 玉藻なびかむほどぞ浮きたる わりなきこと」 |
「和歌の浦に寄せる波に身を任せる玉藻のように 相手の気持ちをよく確かめもせずに従うことは頼りないことです 困りますこと」 |
と聞こゆるさまの馴れたるに、すこし罪ゆるされたまふ。「なぞ越えざらむ」と、うち誦じたまへるを、身にしみて若き人びと思へり。 |
と申し上げる態度がもの馴れているので、すこし大目に見る気になられる。「どうして逢わずにいられようか」と、口ずさみなさるのを、ぞくぞくして若い女房たちは感じ入っていた。 |
君は、上を恋ひきこえたまひて泣き臥したまへるに、御遊びがたきどもの |
姫君は、祖母上をお慕い申されて泣き臥していらっしゃったが、お遊び相手たちが、 |
「直衣着たる人のおはする、宮のおはしますなめり」 |
「直衣を着ている方がいらっしゃってるのは、父宮さまがおいであそばしたのらしいわ」 |
と聞こゆれば、起き出でたまひて、 |
と申し上げると、起き出しなさって、 |
「少納言よ。直衣着たりつらむは、いづら。宮のおはするか」 |
「少納言や。直衣を着ているという方は、どちら。父宮がいらしたの」 |
とて、寄りおはしたる御声、いとらうたし。 |
と言って、近づいて来るお声が、とてもかわいらしい。 |
「宮にはあらねど、また思し放つべうもあらず。こち」 |
「宮さまではありませんが、必ずしも関係ない人ではありません。こちらへ」 |
とのたまふを、恥づかしかりし人と、さすがに聞きなして、悪しう言ひてけりと思して、乳母にさし寄りて、 |
とおっしゃると、あの素晴らしかった方だと、子供心にも聞き分けて、まずいことを言ってしまったとお思いになって、乳母の側に寄って、 |
「いざかし、ねぶたきに」とのたまへば、 |
「ねえ、行きましょうよ。眠いから」とおっしゃるので、 |
「今さらに、など忍びたまふらむ。この膝の上に大殿籠もれよ。今すこし寄りたまへ」 |
「今さら、どうして逃げ隠れなさるのでしょう。わたしの膝の上でお寝みなさいませ。もう少し近くへいらっしゃい」 |
とのたまへば、乳母の、 |
とおっしゃると、乳母が、 |
「さればこそ。かう世づかぬ御ほどにてなむ」 |
「これですから。このようにまだ頑是ないお年頃でして」 |
とて、押し寄せたてまつりたれば、何心もなくゐたまへるに、手をさし入れて探りたまへれば、なよらかなる御衣に、髪はつやつやとかかりて、末のふさやかに探りつけられたる、いとうつくしう思ひやらる。手をとらへたまへれば、うたて例ならぬ人の、かく近づきたまへるは、恐ろしうて、 |
と言って、押しやり申したところ、無心にお座りになったので、お手を差し入れてお探りになると、柔らかなお召物の上に、髪がつやつやと掛かって、末の方までふさふさしているのが、とてもかわいらしく想像される。お手を捉えなさると、気味の悪いよその人が、このように近くにいらっしゃるのは、恐ろしくなって、 |
「寝なむ、と言ふものを」 |
「寝よう、と言っているのに」 |
とて、強ひて引き入りたまふにつきてすべり入りて、 |
と言って、無理に奥に入って行きなさるのに後から付いて御簾の中にすべり入って、 |
「今は、まろぞ思ふべき人。な疎みたまひそ」 |
「今は、わたしが世話して上げる人ですよ。お嫌いにならないでね」 |
とのたまふ。乳母、 |
とおっしゃる。乳母が、 |
「いで、あなうたてや。ゆゆしうもはべるかな。聞こえさせ知らせたまふとも、さらに何のしるしもはべらじものを」とて、苦しげに思ひたれば、 |
「あら、まあ嫌でございますわ。あまりのなさりようでございますわ。いくらお話申し上げあそばしても、何の甲斐もございませんでしょうに」といって、つらそうに困っているので、 |
「さりとも、かかる御ほどをいかがはあらむ。なほ、ただ世に知らぬ心ざしのほどを見果てたまへ」とのたまふ。 |
「いくらなんでも、このようなお年の方をどうしようか。やはり、ただ世間にないほどのわたしの愛情をお見届けください」とおっしゃる。 |
霰降り荒れて、すごき夜のさまなり。 |
霰が降り荒れて、恐ろしい夜の様子である。 |
「いかで、かう人少なに心細うて、過ぐしたまふらむ」 |
「どうして、このような少人数な所で頼りなく過ごしていらっしゃれようか」 |
と、うち泣いたまひて、いと見棄てがたきほどなれば、 |
と思うと、ついお泣きになって、とても見捨てては帰りにくい有様なので、 |
「御格子参りね。もの恐ろしき夜のさまなめるを、宿直人にてはべらむ。人びと、近うさぶらはれよかし」 |
「御格子を下ろしなさい。何となく恐そうな夜の感じのようですから、宿直人となってお勤めしましょう。女房たち、近くに参りなさい」 |
とて、いと馴れ顔に御帳のうちに入りたまへば、あやしう思ひのほかにもと、あきれて、誰も誰もゐたり。乳母は、うしろめたなうわりなしと思へど、荒ましう聞こえ騒ぐべきならねば、うち嘆きつつゐたり。 |
と言って、とても物馴れた態度で御帳の内側にお入りになるので、奇妙な思いも寄らないことをと、あっけにとられて、一同茫然としている。乳母は、心配で困ったことだと思うが、事を荒立て申すべき場合でないので、嘆息しながら見守っていた。 |
若君は、いと恐ろしう、いかならむとわななかれて、いとうつくしき御肌つきも、そぞろ寒げに思したるを、らうたくおぼえて、単衣ばかりを押しくくみて、わが御心地も、かつはうたておぼえたまへど、あはれにうち語らひたまひて、 |
若君は、とても恐ろしく、どうなるのだろうと自然と震えて、とてもかわいらしいお肌も、ぞくぞくと粟立つ感じがなさるのを、源氏の君はいじらしく思われて、肌着だけで包み込んで、ご自分ながらも、一方では変なお気持ちがなさるが、しみじみとお話なさって、 |
「いざ、たまへよ。をかしき絵など多く、雛遊びなどする所に」 |
「さあ、いらっしゃいよ。美しい絵などが多く、お人形遊びなどする所に」 |
と、心につくべきことをのたまふけはひの、いとなつかしきを、幼き心地にも、いといたう怖ぢず、さすがに、むつかしう寝も入らずおぼえて、身じろき臥したまへり。 |
と、気に入りそうなことをおっしゃる様子が、とても優しいので、子供心にも、そう大して物怖じせず、とは言っても、気味悪くて眠れなく思われて、もじもじして横になっていらっしゃった。 |
夜一夜、風吹き荒るるに、 |
一晩中、風が吹き荒れているので、 |
「げに、かう、おはせざらましかば、いかに心細からまし」 「同じくは、よろしきほどにおはしまさましかば」 |
「ほんとうに、このように、お越し下さらなかったら、どんなに心細かったことでしょう」 「同じことなら、お似合いの年でおいであそばしたら」 |
とささめきあへり。乳母は、うしろめたさに、いと近うさぶらふ。風すこし吹きやみたるに、夜深う出でたまふも、ことあり顔なりや。 |
とささやき合っている。少納言の乳母は、心配で、すぐ近くに控えている。風が少し吹き止んだので、夜の深いうちにお帰りになるのも、いかにもわけありそうな朝帰りであるよ。 |
「いとあはれに見たてまつる御ありさまを、今はまして、片時の間もおぼつかなかるべし。明け暮れ眺めはべる所に渡したてまつらむ。かくてのみは、いかが。もの怖ぢしたまはざりけり」とのたまへば、 |
「とてもお気の毒にお見受け致しましたご様子を、今では以前にもまして、片時の間も見なくては気がかりでならないでしょう。毎日物思いをして暮らしている所にお迎え申し上げましょう。こうしてばかりいては、どんなものでしょうか。姫君はお恐がりにはならなかった」とおっしゃると、 |
「宮も御迎へになど聞こえのたまふめれど、この御四十九日過ぐしてや、など思うたまふる」と聞こゆれば、 |
「父宮もお迎えになどと申していらっしゃるようですが、故尼君の四十九日忌が過ぎてからか、などと存じます」と申し上げると、 |
「頼もしき筋ながらも、よそよそにてならひたまへるは、同じうこそ疎うおぼえたまはめ。今より見たてまつれど、浅からぬ心ざしはまさりぬべくなむ」 |
「頼りになる血筋ではあるが、ずっと別々に暮らして来られた方は、他人同様に疎々しくお思いでしょう。今夜初めてお会いしたが、わたしの深い愛情は父宮様以上でしょう」 |
とて、かい撫でつつ、かへりみがちにて出でたまひぬ。 |
と言って、かき撫でかき撫でして、後髪を引かれる思いでお出になった。 |
いみじう霧りわたれる空もただならぬに、霜はいと白うおきて、まことの懸想もをかしかりぬべきに、さうざうしう思ひおはす。いと忍びて通ひたまふ所の道なりけるを思し出でて、門うちたたかせたまへど、聞きつくる人なし。かひなくて、御供に声ある人して歌はせたまふ。 |
ひどく霧の立ちこめた空もいつもとは違った風情であるうえに、霜は真白に置いて、実際の恋であったら興趣あるはずなのに、何か物足りなく思っていらっしゃる。たいそう忍んでお通いになる方への道筋であったのをお思い出しになって、門を叩かせなさるが、聞きつける人がいない。しかたなくて、お供の中で声の良い者に歌わせなさる。 |
「朝ぼらけ霧立つ空のまよひにも 行き過ぎがたき妹が門かな」 |
「曙に霧が立ちこめた空模様につけても 素通りし難い貴女の家の前ですね」 |
と、二返りばかり歌ひたるに、よしある下仕ひを出だして、 |
と、二返ほど歌わせたところ、心得ある下仕え人を出して、 |
「立ちとまり霧のまがきの過ぎうくは 草のとざしにさはりしもせじ」 |
「霧の立ちこめた家の前を通り過ぎ難いとおっしゃるならば 生い茂った草が門を閉ざしたことぐらい何でもないでしょうに」 |
と言ひかけて、入りぬ。また人も出で来ねば、帰るも情けなけれど、明けゆく空もはしたなくて殿へおはしぬ。 |
と詠みかけて、入ってしまった。他に誰も出て来ないので、帰るのも風情がないが、空が明るくなって行くのも体裁が悪いので邸へお帰りになった。 |
をかしかりつる人のなごり恋しく、独り笑みしつつ臥したまへり。日高う大殿籠もり起きて、文やりたまふに、書くべき言葉も例ならねば、筆うち置きつつすさびゐたまへり。をかしき絵などをやりたまふ。 |
かわいらしかった方の面影が恋しく、独り微笑みながら臥せっていらっしゃった。日が高くなってからお起きになって、手紙を書いておやりになる時、書くはずの言葉も普通と違うので、筆を書いては置き書いては置きと、気の向くままにお書きになっている。美しい絵などをお届けなさる。 |
かしこには、今日しも、宮わたりたまへり。年ごろよりもこよなう荒れまさり、広うもの古りたる所の、いとど人少なに久しければ、見わたしたまひて、 |
あちらでは、ちょうど今日、父宮がおいでになった。数年来以上にすっかり荒れ行き、広く古めかしくなった邸が、ますます人数が少なくなって月日を経ているので、ずっと御覧になって、 |
「かかる所には、いかでか、しばしも幼き人の過ぐしたまはむ。なほ、かしこに渡したてまつりてむ。何の所狭きほどにもあらず。乳母は、曹司などしてさぶらひなむ。君は、若き人びとあれば、もろともに遊びて、いとようものしたまひなむ」などのたまふ。 |
「このような所には、どうして、少しの間でも幼い子供がお過しになれよう。やはり、あちらにお引き取り申し上げよう。けっして窮屈な所ではない。乳母には、部屋をもらって仕えればよい。姫君は、若い子たちがいるので、一緒に遊んで、とても仲良くやって行けよう」などとおっしゃる。 |
近う呼び寄せたてまつりたまへるに、かの御移り香の、いみじう艶に染みかへらせたまへれば、「をかしの御匂ひや。御衣はいと萎えて」と、心苦しげに思いたり。 |
近くにお呼び寄せになると、あの源氏の君のおん移り香が、たいそうよい匂いに深く染み着いていらっしゃるので、「いい匂いだ。お召し物はすっかりくたびれているが」と、お気の毒にお思いになった。 |
「年ごろも、あつしくさだ過ぎたまへる人に添ひたまへるよ、かしこにわたりて見ならしたまへなど、ものせしを、あやしう疎みたまひて、人も心置くめりしを、かかる折にしもものしたまはむも、心苦しう」などのたまへば、 |
「これまでは、病気がちのお年寄と一緒においでになったことよ、あちらに引っ越してお馴染みなさいなどと、言っていましたが、変にお疎んじなさって、妻もおもしろからぬようでいたが、このような時に移って来られるのも、おかわいそうに」などとおっしゃると、 |
「何かは。心細くとも、しばしはかくておはしましなむ。すこしものの心思し知りなむにわたらせたまはむこそ、よくははべるべけれ」と聞こゆ。 |
「いえどう致しまして。心細くても、今暫くはこうしておいであそばしましょう。もう少し物の道理がお分かりになりましたら、お移りあそばされることが良うございましょう」と申し上げる。 |
「夜昼恋ひきこえたまふに、はかなきものもきこしめさず」 |
「夜昼となくお慕い申し上げなさって、ちょっとした物もお召し上がりになりません」 |
とて、げにいといたう面痩せたまへれど、いとあてにうつくしく、なかなか見えたまふ。 |
と申して、なるほど、とてもひどく面痩せなさっているが、まことに上品でかわいらしく、かえって美しくお見えになる。 |
「何か、さしも思す。今は世に亡き人の御ことはかひなし。おのれあれば」 |
「どうして、そんなにお悲しみなさる。今はもうこの世にいない方のことは、しかたがありません。わたしがついているので」 |
など語らひきこえたまひて、暮るれば帰らせたまふを、いと心細しと思いて泣いたまへば、宮うち泣きたまひて、 |
などとやさしくお話申し上げなさって、日が暮れるとお帰りあそばすのを、とても心細いとお思いになってお泣きになると、宮ももらい泣きなさって、 |
「いとかう思ひな入りたまひそ。今日明日、渡したてまつらむ」など、返す返すこしらへおきて、出でたまひぬ。 |
「けっして、そんなにご心配なさるな。今日明日のうちに、お移し申そう」などと、繰り返しなだめすかして、お帰りになった。 |
なごりも慰めがたう泣きゐたまへり。行く先の身のあらむことなどまでも思し知らず、ただ年ごろ立ち離るる折なうまつはしならひて、今は亡き人となりたまひにける、と思すがいみじきに、幼き御心地なれど、胸つとふたがりて、例のやうにも遊びたまはず、昼はさても紛らはしたまふを、夕暮となれば、いみじく屈したまへば、かくてはいかでか過ごしたまはむと、慰めわびて、乳母も泣きあへり。 |
その後の寂しさも慰めようがなく泣き沈んでいらっしゃった。将来の身の上のことなどはお分りにならず、ただ長年離れることなく一緒にいて、今はお亡くなりになってしまったと、お思いになるのが悲しくて、子供心であるが、胸がいっぱいにふさがって、いつものようにもお遊びはなさらず、昼間はどうにかお紛らわしになるが、夕暮時になると、ひどくおふさぎこみなさるので、これではどのようにお過ごしになられようかと、慰めあぐねて、乳母たちも一緒に泣いていた。 |
君の御もとよりは、惟光をたてまつれたまへり。 |
源氏の君のお邸からは、惟光をお差し向けなさった。 |
「参り来べきを、内裏より召あればなむ。心苦しう見たてまつりしも、しづ心なく」とて、宿直人たてまつれたまへり。 |
「私自身参るべきところ、帝からお召しがありまして。お気の毒に拝見致しましたのにつけても、気がかりで」と伝えて、宿直人を差し向けなさった。 |
「あぢきなうもあるかな。戯れにても、もののはじめにこの御ことよ」 「宮聞こし召しつけば、さぶらふ人びとのおろかなるにぞさいなまむ」 「あなかしこ、もののついでに、いはけなくうち出できこえさせたまふな」 |
「情けないことですわ。ご冗談にも結婚の最初からして、このようなお事とは」 「宮さまがお耳にされたら、お仕えする者の落度として叱られましょう」 「ああ、大変だわ。何かのついでに、父宮にうっかりお口にあそばされますな」 |
など言ふも、それをば何とも思したらぬぞ、あさましきや。 |
などと言うにつけても、そのことを何ともお分りでいらっしゃらないのは、困ったことであるよ。 |
少納言は、惟光にあはれなる物語どもして、 |
少納言の乳母は、惟光に気の毒な身の上話をいろいろとして、 |
「あり経て後や、さるべき御宿世、逃れきこえたまはぬやうもあらむ。ただ今は、かけてもいと似げなき御ことと見たてまつるを、あやしう思しのたまはするも、いかなる御心にか、思ひ寄るかたなう乱れはべる。今日も、宮渡らせたまひて、『うしろやすく仕うまつれ。心幼くもてなしきこゆな』とのたまはせつるも、いとわづらはしう、ただなるよりは、かかる御好き事も思ひ出でられはべりつる」 |
「これから先いつか、ご一緒になるようなご縁から、お逃れ申されなさらいものかも知れません。ただ今は、まったく不釣り合いなお話と拝察致しておりますが、不思議にご熱心に思ってくださり、またおっしゃってくださいますのを、どのようなお気持ちからかと、判断つかないで悩んでおります。今日も、宮さまがお越しあそばして、『安心の行くように仕えなさい。うっかりしたことは致すな』と仰せられたのも、とても厄介で、なんでもなかった時より、このような好色めいたことも改めて気になるのでございました」 |
など言ひて、「この人もことあり顔にや思はむ」など、あいなければ、いたう嘆かしげにも言ひなさず。大夫も、「いかなることにかあらむ」と、心得がたう思ふ。 |
などと言って、「この人も何か特別の関係があったように思うだろうか」など思われるのも、不本意なので、ひどく悲しんでいるようには言わない。惟光大夫も、「どのような事なのだろう」と、ふに落ちなく思う。 |
参りて、ありさまなど聞こえければ、あはれに思しやらるれど、さて通ひたまはむも、さすがにすずろなる心地して、「軽々しうもてひがめたると、人もや漏り聞かむ」など、つつましければ、「ただ迎へてむ」と思す。 |
帰参して、様子などをご報告すると、しみじみと思いをお馳せになるが、先夜のようにお通いなさるのも、やはり似合わしくない気持ちがして、「軽率な風変わりなことをしていると、世間の人が聞き知るかも知れない」などと、遠慮されるので、「いっそ迎えてしまおう」とお考えになる。 |
御文はたびたびたてまつれたまふ。暮るれば、例の大夫をぞたてまつれたまふ。「障はる事どものありて、え参り来ぬを、おろかにや」などあり。 |
お手紙は頻繁に差し上げなさる。暮れると、いつものように惟光大夫をお差し向けなさる。「差し障りがあって参れませんのを、不熱心なとでも」などと、伝言がある。 |
「宮より、明日にはかに御迎へにとのたまはせたりつれば、心あわたたしくてなむ。年ごろの蓬生を離れなむも、さすがに心細く、さぶらふ人びとも思ひ乱れて」 |
「宮さまから、明日急にお迎えに参ると仰せがありましたので、気ぜわしくて。長年住みなれた蓬生の宿を離れますのも、何と言っても心細く、お仕えする女房たちも思い乱れております」 |
と、言少なに言ひて、をさをさあへしらはず、もの縫ひいとなむけはひなどしるければ、参りぬ。 |
と、言葉数少なに言って、ろくにお相手もせずに、繕い物をする様子がはっきり分かるので、帰参した。 |