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若 紫

第三章 紫上の物語(2) 若紫の君、源氏の二条院邸に盗み出される物語

1.紫の君、六条京極の邸に戻る

 

本文

現代語訳

 かの山寺の人は、よろしくなりて出でたまひにけり。京の御住処尋ねて、時々の御消息などあり。同じさまにのみあるも道理なるうちに、この月ごろは、ありしにまさる物思ひに、異事なくて過ぎゆく。

 あの山寺の人は、少しよくなってお出になられたのであった。京のお住まいを尋ねて、時々お手紙などがある。同じような返事ばかりであるのももっともであるが、ここ何か月は、以前にも増す物思いによって、他の事を思う間もなくて過ぎて行く。

 秋の末つ方、いともの心細くて嘆きたまふ。月のをかしき夜、忍びたる所にからうして思ひ立ちたまへるを、時雨めいてうちそそく。おはする所は六条京極わたりにて、内裏よりなれば、すこしほど遠き心地するに、荒れたる家の木立いともの古りて木暗く見えたるあり。例の御供に離れぬ惟光なむ、

 秋の終わりころ、とても物寂しくお嘆きになる。月の美しい夜に、お忍びの家にやっとのことでお思い立ちになると、時雨めいてさっと降る。おいでになる先は六条京極辺りで、内裏からなので、少し遠い感じがしていると、荒れた邸で木立がとても年代を経て鬱蒼と見えるのがある。いつものお供を欠かさない惟光が、

 

 「故按察使大納言の家にはべりて、もののたよりにとぶらひてはべりしかば、かの尼上、いたう弱りたまひにたれば、何ごともおぼえず、となむ申してはべりし」と聞こゆれば、

 「故按察大納言の家でございまして、ちょっとしたついでに立ち寄りましたところ、あの尼上は、ひどくご衰弱されていらっしゃるので、どうして良いか分からないでいる、と申しておりました」と申し上げると、

 

 「あはれのことや。とぶらふべかりけるを。などか、さなむとものせざりし。入りて消息せよ」

 「お気の毒なことよ。お見舞いすべきであったのに。どうして、そうと教えなかったのか。入って行って、挨拶をせよ」

 とのたまへば、人入れて案内せさす。わざとかう立ち寄りたまへることと言はせたれば、入りて、

 とおっしゃるので、惟光は供人を入れて案内を乞わせる。わざわざこのようにお立ち寄りになった旨を言わせたので、入って行って、

 「かく御とぶらひになむおはしましたる」と言ふに、おどろきて、

 「このようにお見舞いにいらっしゃいました」と言うと、驚いて、

 「いとかたはらいたきことかな。この日ごろ、むげにいと頼もしげなくならせたまひにたれば、御対面などもあるまじ」

 「とても困ったことですわ。ここ数日、ひどくご衰弱あそばされましたので、お目にかかることなどはとてもできそうにありません」

 と言へども、帰したてまつらむはかしこしとて、南の廂ひきつくろひて、入れたてまつる。

 とは言っても、お帰し申すのも恐れ多いということで、南の廂の間を片づけて、お入れ申し上げる。

 「いとむつかしげにはべれど、かしこまりをだにとて。ゆくりなう、もの深き御座所になむ」

 「たいそうむさ苦しい所でございますが、せめてお礼だけでもとのことで。何の用意もなく、鬱陶しいご座所で恐縮です」

 と聞こゆ。げにかかる所は、例に違ひて思さる。

 と申し上げる。なるほどこのような所は、普通とは違っているとお思いになる。

 「常に思ひたまへ立ちながら、かひなきさまにのみもてなさせたまふに、つつまれはべりてなむ。悩ませたまふこと、重くとも、うけたまはらざりけるおぼつかなさ」など聞こえたまふ。

 「常にお見舞いにと存じながら、すげないお返事ばかりあそばされますので、遠慮いたされまして。ご病気でいらっしゃること、重いこととも、存じませんでしたもどかしさを」などと申し上げなさる。

 「乱り心地は、いつともなくのみはべるが、限りのさまになりはべりて、いとかたじけなく、立ち寄らせたまへるに、みづから聞こえさせぬこと。のたまはすることの筋、たまさかにも思し召し変はらぬやうはべらば、かくわりなき齢過ぎはべりて、かならず数まへさせたまへ。いみじう心細げに見たまへ置くなむ、願ひはべる道のほだしに思ひたまへられぬべき」など聞こえたまへり。

 「気分のすぐれませんことは、いつも変わらずでございますが、いよいよの際となりまして、まことにもったいなくも、お立ち寄りいただきましたのに、自分自身でお礼申し上げられませんこと。仰せられますお話の旨は、万一にもお気持ちが変わらないようでしたら、このような頑是ない時期が過ぎましてから、きっとお目をかけて下さいませ。ひどく頼りない身の上のまま残して逝きますのが、願っております仏道の妨げに存ぜずにはいられません」などと、申し上げなさった。

 いと近ければ、心細げなる御声絶え絶え聞こえて、

 すぐに近いところなので、不安そうなお声が途切れ途切れに聞こえて、

 「いと、かたじけなきわざにもはべるかな。この君だに、かしこまりも聞こえたまつべきほどならましかば」

 「まことに、もったいないことでございます。せめてこの姫君が、お礼申し上げなされるお年でありましたならよいのに」

 とのたまふ。あはれに聞きたまひて、

 とおっしゃる。しみじみとお聞きになって、

 「何か、浅う思ひたまへむことゆゑ、かう好き好きしきさまを見えたてまつらむ。いかなる契りにか、見たてまつりそめしより、あはれに思ひきこゆるも、あやしきまで、この世のことにはおぼえはべらぬ」などのたまひて、「かひなき心地のみしはべるを、かのいはけなうものしたまふ御一声、いかで」とのたまへば、

 「どうして、浅く思っております気持ちから、このような好色めいた態度をお見せ申し上げましょうか。どのような前世からの因縁によってか、初めてお目にかかった時から、愛しくお思い申しているのも、不思議なまでに、この世の縁だけとは思われません」などとおっしゃって、「いつも甲斐ない思いばかりしていますので、あのかわいらしくいらっしゃるお一声を、ぜひとも」とおっしゃると、

 「いでや、よろづ思し知らぬさまに、大殿籠もり入りて」

 「いやはや、何もご存知ないさまで、ぐっすりお眠りになっていらっしゃって」

 など聞こゆる折しも、あなたより来る音して、

 などと申し上げている、ちょうどその時、あちらの方からやって来る足音がして、

 「上こそ、この寺にありし源氏の君こそおはしたなれ。など見たまはぬ」

 「祖母上さま、先日の寺にいらした源氏の君さまがいらしているそうですね。どうしてお会いさらないの」

 とのたまふを、人びと、いとかたはらいたしと思ひて、「あなかま」と聞こゆ。

 とおっしゃるのを、女房たちは、とても具合悪く思って、「お静かに」と制止申し上げる。

 「いさ、『見しかば心地の悪しさなぐさみき』とのたまひしかばぞかし」

 「あら、だって、『会ったので気分の悪いのも良くなった』とおっしゃったからよ」

 と、かしこきこと聞こえたりと思してのたまふ。

 と、利口なことを申し上げたとお思いになっておっしゃる。

 いとをかしと聞いたまへど、人びとの苦しと思ひたれば、聞かぬやうにて、まめやかなる御とぶらひを聞こえ置きたまひて、帰りたまひぬ。「げに、言ふかひなのけはひや。さりとも、いとよう教へてむ」と思す。

 とてもおもしろいとお聞きになるが、女房たちが困っているので、聞かないようにして、行き届いたお見舞いを申し上げおかれて、お帰りになった。「なるほど、まるで子供っぽいご様子だ。けれども、よく教育しよう」とお思いになる。

 またの日も、いとまめやかにとぶらひきこえたまふ。例の、小さくて、

 翌日も、とても誠実なお見舞いを差し上げなさる。いつものように、小さく結んで、

 「いはけなき鶴の一声聞きしより

  葦間になづむ舟ぞえならぬ

 同じ人にや」

 「かわいい鶴の一声を聞いてから

   葦の間を行き悩む舟はただならぬ思いをしています

  同じ人を慕い続けるだけなのでしょうか」

 と、ことさら幼く書きなしたまへるも、いみじうをかしげなれば、「やがて御手本に」と、人びと聞こゆ。少納言ぞ聞こえたる。

 と、殊更にかわいらしくお書きになっているのも、たいそう見事なので、「そのままお手本に」と、女房たちは申し上げる。少納言がお返事申し上げた。

 「問はせたまへるは、今日をも過ぐしがたげなるさまにて、山寺にまかりわたるほどにて。かう問はせたまへるかしこまりは、この世ならでも聞こえさせむ」

 「お見舞いいただきました方は、今日一日も危いような状態なので、山寺に移るところでして。このよう緩お見舞いいただきましたお礼は、あの世からでもお返事をさせていただきましょう」

 とあり。いとあはれと思す。

 とある。とてもお気の毒とお思いになる。

 秋の夕べは、まして、心のいとまなく思し乱るる人の御あたりに心をかけて、あながちなるゆかりも尋ねまほしき心もまさりたまふなるべし。「消えむ空なき」とありし夕べ思し出でられて、恋しくも、また、見ば劣りやせむと、さすがにあやふし。

 秋の夕暮れは、常にも増して、心の休まる間もなく恋い焦がれている人のことに思いが集中して、無理にでもそのゆかりの人を尋ね取りたい気持ちもお募りなさるのであろう。尼君が「死にきれない」と詠んだ夕暮れを自然とお思い出しになられて、恋しく思っても、また、実際に逢ってみたら見劣りがしないだろうかと、やはり不安である。

 「手に摘みていつしかも見む紫の

  根にかよひける野辺の若草」

 「手に摘んで早く見たいものだ

   紫草にゆかりのある野辺の若草を」



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