末摘花

第一章 末摘花の物語

3.新春正月十六日の夜に姫君の琴を聴く

  本文  現代語訳
  のたまひしもしるく、十六夜の月をかしきほどにおはしたり。   おっしゃったとおりに、十六夜の月が美しい晩にいらっしゃった。
  「いと、かたはらいたきわざかな。ものの音澄むべき夜のさまにもはべらざめるに」と聞こゆれど、   「とても、困りましたことですわ。楽の音が冴え渡って聞こえる夜でもございませんようなので」と申し上げるが、
  「なほ、あなたにわたりて、ただ一声も、もよほしきこえよ。むなしくて帰らむが、ねたかるべきを」   「もっと、あちらに行って、たった一声でも、お勧め申せ。聞かないで帰るようなのが、癪だろうから」
  とのたまへば、うちとけたる住み処に据ゑたてまつりて、うしろめたうかたじけなしと思へど、寝殿に参りたれば、まだ格子もさながら、梅の香をかしきを見出だしてものしたまふ。よき折かな、と思ひて、   とおっしゃるので、くつろいだ部屋でお待ちいただいて、気がかりでもったいないと思うが、寝殿に参上したところ、まだ格子を上げたままで、梅の香の素晴らしいのを眺めていらっしゃる。ちょうど良い折だと思って、
   
  「御琴の音、いかにまさりはべらむと、思ひたまへらるる夜のけしきに、誘はれはべりてなむ。心あわたたしき出で入りに、えうけたまはらぬこそ口惜しけれ」と言へば、   「お琴の音は、どんなに聞き優ることでございましょうと、思わずにはいられません今夜の風情に、心惹かれまして。気ぜわしくお伺いして、お聞かせ頂けないのが残念でございます」と言うと、
  「聞き知る人こそあなれ。百敷に行き交ふ人の聞くばかりやは」   「分かる人がいるというのですね。宮中にお出入りしている人が聞くほどでも」
  とて、召し寄するも、あいなう、いかが聞きたまはむと、胸つぶる。   と言って、取り寄せるので、人ごとながら、どのようにお聞きになるだろうかと、どきどきする。
  ほのかに掻き鳴らしたまふ、をかしう聞こゆ。何ばかり深き手ならねど、ものの音がらの筋ことなるものなれば、聞きにくくも思されず。   かすかに掻き鳴らしなさるのが、趣あるように聞こえる。特に上手といったほどでもないが、楽器の音色が他とは違って格式高い物なので、聞きにくいともお思いにならない。
   
  「いといたう荒れわたりて寂しき所に、さばかりの人の、古めかしう、ところせく、かしづき据ゑたりけむ名残なく、いかに思ほし残すことなからむ。かやうの所にこそは、昔物語にもあはれなることどもありけれ」など思ひ続けても、ものや言ひ寄らまし、と思せど、うちつけにや思さむと、心恥づかしくて、やすらひたまふ。   「とてもひどく一面に荒れはた寂しい邸に、これほどの女性が、古めかしく、格式ばって、大切にお育てしていたのであろう面影もすっかりなくなって、どれほど物思いの限りを尽くしていらっしゃることだろう。このような所にこそ、昔物語にもしみじみとした話がよくあったものだ」などと連想して、言い寄ってみようかしら、とお思いになるが、唐突だとお思いになるであろうかと、気がひけて、躊躇なさる。
  命婦、かどある者にて、いたう耳ならさせたてまつらじ、と思ひければ、   命婦は、よく気の利く者で、たくさんお聞かせ申すまい、と思ったので、
 「曇りがちにはべるめり。客人の来むとはべりつる、いとひ顔にもこそ。いま心のどかにを。御格子参りなむ」   「曇りがちのようでございます。お客が来ることになっておりました、嫌っているようにも受け取られては。そのうち、ゆっくりと。御格子を下ろしましょう」
  とて、いたうもそそのかさで帰りたれば、   と言って、あまりお勧めしないで帰って来たので、
  「なかなかなるほどにても止みぬるかな。もの聞き分くほどにもあらで、ねたう」   「中途半端な所で終わってしまったね。十分聞き分けられる間もなくて、残念に」
  とのたまふけしき、をかしと思したり。   とおっしゃる様子は、ご関心をお持ちである。
   
  「同じくは、け近きほどの立ち聞きせさせよ」   「同じことなら、もっと近い所で立ち聞きさせよ」
  とのたまへど、「心にくくて」と思へば、   とおっしゃるが、「もっと聞きたいと思うところで」と思うので、
 「いでや、いとかすかなるありさまに思ひ消えて、心苦しげにものしたまふめるを、うしろめたきさまにや」   「さあ、いかがなものでしょうか、とてもひっそりとした様子に思い沈んで、気の毒そうでいらっしゃるようなので、案じられまして」
  と言へば、「げに、さもあること。にはかに我も人もうちとけて語らふべき人の際は、際とこそあれ」など、あはれに思さるる人の御ほどなれば、   と言うと、「なるほど、それももっともだ。急に自分も相手も親しくなるような身分の人は、その程度の者なのだ」などと、お気の毒に思われるご身分のお方なので、
  「なほ、さやうのけしきをほのめかせ」と、語らひたまふ。   「やはり、気持ちをそれとなく伝えてくれよ」と、言い含めなさる。
   
  また契りたまへる方やあらむ、いと忍びて帰りたまふ。   他に約束なさった所があるのだろうか、とてもこっそりとお帰りになる。
 「主上の、まめにおはしますと、もてなやみきこえさせたまふこそ、をかしう思うたまへらるる折々はべれ。かやうの御やつれ姿を、いかでかは御覧じつけむ」   「お上が、き真面目でいらっしゃると、お困りあそばさしていらっしゃるのが、おかしく存じられる時々がございます。このようなお忍び姿を、どうして御覧になれましょう」
  と聞こゆれば、たち返り、うち笑ひて、   と申し上げると、引き返して来て、ちょっと微笑んで、
 「異人の言はむやうに、咎なあらはされそ。これをあだあだしきふるまひと言はば、女のありさま苦しからむ」   「他人が言うように、欠点を言い立てなさるな。これを好色な振る舞いと言ったら、どこかの女の有様は、弁解できないだろう」
  とのたまへば、「あまり色めいたりと思して、折々かうのたまふを、恥づかし」と思ひて、ものも言はず。   とおっしゃるので、「あまりに好色めいているとお思いになって、時々このようにおっしゃるのを、恥ずかしい」と思って、何とも言わない。
   
  寝殿の方に、人のけはひ聞くやうもやと思して、やをら立ち退きたまふ。透垣のただすこし折れ残りたる隠れの方に、立ち寄りたまふに、もとより立てる男ありけり。「誰れならむ。心かけたる好き者ありけり」と思して、蔭につきて立ち隠れたまへば、頭中将なりけり。   寝殿の方に、姫君の様子が聞けようかとお思いになって、静かにお立ち下がりになる。透垣がわずかに折れ残っている物蔭に、お立ち添いになると、以前から立っている男がいるのであった。「誰だろう。懸想している好色人がいたのだなあ」とお思いになって、蔭に寄って隠れなさ ると、頭中将なのであった。
  この夕つ方、内裏よりもろともにまかでたまひける、やがて大殿にも寄らず、二条院にもあらで、引き別れたまひけるを、いづちならむと、ただならで、我も行く方あれど、後につきてうかがひけり。あやしき馬に、狩衣姿のないがしろにて来ければ、え知りたまはぬに、さすがに、かう異方に入りたまひぬれば、心も得ず思ひけるほどに、ものの音に聞きついて立てるに、帰りや出でたまふと、下待つなりけり。   この夕方、内裏から一緒に退出なさったが、そのまま大殿にも寄らず、二条の院でもなく、別の方角に行ったのを、どこへ行くのだろうと、好奇心が湧いて、自分も行く所はあるが、後を付けて窺うのであった。粗末な馬で、狩衣姿の身軽な恰好で来たので、お気付きにならないが、予想と違って、あのような別の建物にお入りになったので、合点が行かずにいた時に、琴の音に耳をとられて立っていたが、帰りにはお出になるだろうかと、心待ちしているのであった。
   
  君は、誰ともえ見分きたまはで、我と知られじと、抜き足に歩みたまふに、ふと寄りて、   君は、誰ともお分かりにならず、自分と知られまいと、抜き足に通ろうとなさると、急に近寄って来て、
  「ふり捨てさせたまへるつらさに、御送り仕うまつりつるは。   「置いてきぼりあそばされた悔しさに、お見送り申し上げたのですよ。
 

   もろともに大内山は出でつれど

  入る方見せぬいさよひの月」

 

  ご一緒に宮中を退出しましたのに

  行く先を晦ましてしまわれる十六夜の月ですね」

  と恨むるもねたけれど、この君と見たまふ、すこしをかしうなりぬ。   と恨まれるのが癪だが、この君だとお分かりになると、少しおかしくなった。
   
 「人の思ひよらぬことよ」と憎む憎む、   「人が驚くではないか」と憎らしがりながら、
 

 「里わかぬかげをば見れどゆく月の

  いるさの山を誰れか尋ぬる」

 

 「どの里も遍く照らす月は空に見えても

   その月が隠れる山まで尋ねる人はいませんよ」

  「かう慕ひありかば、いかにせさせたまはむ」と聞こえたまふ。   「このように後を付け廻したら、どうあそばされますか」とお尋ねなさる。
   
   「まことは、かやうの御歩きには、随身からこそはかばかしきこともあるべけれ。後らさせたまはでこそあらめ。やつれたる御歩きは、軽々しき事も出で来なむ」   「本当は、このようなお忍び歩きには、随身によって埒も開こうというものです。置いてきぼりあそばさないのがよいでしょう。身をやつしてのお忍び歩きには、軽率なことも出て来ましょう」
 と、おし返しいさめたてまつる。かうのみ見つけらるるを、ねたしと思せど、かの撫子はえ尋ね知らぬを、重き功に、御心のうちに思し出づ。   と、反対にご忠告申し上げる。このようにしかと見つけられたのを、悔しくお思いになるが、あの撫子は見つけ出せないのを、大きな手柄だと、ご内心お思い出しになる。