第一章 六条御息所の物語 秋の別れと伊勢下向の物語
2.
野の宮訪問と暁の別れ
本文 |
現代語訳 |
九月七日ばかりなれば、「むげに今日明日」と思すに、女方も心あわたたしけれど、「立ちながら」と、たびたび御消息ありければ、「いでや」とは思しわづらひながら、「いとあまり埋もれいたきを、物越ばかりの対面は」と、人知れず待ちきこえたまひけり。 |
九月七日ころなので、「まったく今日明日だ」とお思いになると、女の方でも気忙しいが、「立ちながらでも」と、何度もお手紙があったので、「どうしたものか」とお迷いになりながらも、「あまりに控え目過ぎるから、物越しにお目にかかるのなら」と、人知れずお待ち申し上げていらっしゃるのであった。 |
遥けき野辺を分け入りたまふより、いとものあはれなり。秋の花、みな衰へつつ、浅茅が原も枯れ枯れなる虫の音に、松風、すごく吹きあはせて、そのこととも聞き分かれぬほどに、物の音ども絶え絶え聞こえたる、いと艶なり。 |
広々とした野辺に分け入りなさるなり、いかにも物寂しい感じがする。秋の花、みな萎れかかって、浅茅が原も枯れがれとなり虫の音も鳴き嗄らしているところに、松風、身にしみて音を添えて、いずれの琴とも聞き分けられないくらいに、楽の音が絶え絶えに聞こえて来る、まことに優艶である。 |
むつましき御前、十余人ばかり、御随身、ことことしき姿ならで、いたう忍びたまへれど、ことにひきつくろひたまへる御用意、いとめでたく見えたまへば、御供なる好き者ども、所からさへ身にしみて思へり。御心にも、「などて、今まで立ちならさざりつらむ」と、過ぎぬる方、悔しう思さる。 |
気心の知れた御前駆の者、十余人ほど、御随身、目立たない服装で、たいそうお忍びのふうをしていられるが、格別にお気を配っていらっしゃるご様子、まことに素晴らしくお見えになるので、お供の風流者など、場所が場所だけに身にしみて感じ入っていた。ご内心、「どうして、今まで来なかったのだろう」と、過ぎ去った日々、後悔せずにはいらっしゃれない。 |
ものはかなげなる小柴垣を大垣にて、板屋どもあたりあたりいとかりそめなり。黒木の鳥居ども、さすがに神々しう見わたされて、わづらはしきけしきなるに、神司の者ども、ここかしこにうちしはぶきて、おのがどち、物うち言ひたるけはひなども、他にはさま変はりて見ゆ。火焼屋かすかに光りて、人気すくなく、しめじめとして、ここにもの思はしき人の、月日を隔てたまへらむほどを思しやるに、いといみじうあはれに心苦し。 |
ちょっとした小柴垣を外囲いにして、板屋が幾棟もあちこちに仮普請のようである。黒木の鳥居どもは、やはり神々しく眺められて、遠慮される気がするが、神官どもが、あちこちで咳払いをして、お互いに、何か話している様子なども、他所とは様子が変わって見える。火焼屋、微かに明るくて、人影も少なく、しんみりとしていて、ここに物思いに沈んでいる人が、幾月日も世間から離れて過ごしてこられた間のことをご想像なさると、とてもたまらなくおいたわしい。 |
北の対のさるべき所に立ち隠れたまひて、御消息聞こえたまふに、遊びはみなやめて、心にくきけはひ、あまた聞こゆ。 何くれの人づての御消息ばかりにて、みづからは対面したまふべきさまにもあらねば、「いとものし」と思して、 |
北の対の適当な場所に立ち隠れなさって、ご来訪の旨をお申し入れなさると、管弦のお遊びはみな止めて、奥ゆかしい気配、たくさん聞こえる。 何やかやと女房を通じてのご挨拶ばかりで、ご自身はお会いなさる様子もないので、「まことに面白くない」とお思いになって、 |
「かうやうの歩きも、今はつきなきほどになりにてはべるを、思ほし知らば、かう注連のほかにはもてなしたまはで。いぶせうはべることをも、あきらめはべりにしがな」 と、まめやかに聞こえたまへば、人びと、 「げに、いとかたはらいたう」 「立ちわづらはせたまふに、いとほしう」 |
「このような外出も、今では相応しくない身分になってしまったことを、お察しいただければ、このような注連の外には、立たせて置くようなことはなさらないで。胸に溜まっていますことをも、晴らしたいものです」 と、真面目に申し上げなさると、女房たち、 「おっしゃるとおり、とても見てはいられませんわ」 「お立ちん坊のままでいらっしゃっては、お気の毒で」 |
など、あつかひきこゆれば、「いさや。ここの人目も見苦しう、かの思さむことも、若々しう、出でゐむが、今さらにつつましきこと」と思すに、いともの憂けれど、情けなうもてなさむにもたけからねば、とかくうち嘆き、やすらひて、ゐざり出でたまへる御けはひ、いと心にくし。 |
などと、お取りなし申すので、「さてどうしたものか。ここの女房たちの目にも体裁が悪いだろうし、あの方がお思いになることも、年甲斐もなく、端近に出て行くのが、今さらに気後れして」とお思いになると、とても億劫であるが、冷淡な態度をとるほど気強くもないので、とかく溜息をつきためらって、いざり出ていらっしゃったご様子、まことに奥ゆかしい。 |
「こなたは、簀子ばかりの許されははべりや」 とて、上りゐたまへり。 はなやかにさし出でたる夕月夜に、うち振る舞ひたまへるさま、匂ひに、似るものなくめでたし。月ごろのつもりを、つきづきしう聞こえたまはむも、まばゆきほどになりにければ、榊をいささか折りて持たまへりけるを、挿し入れて、 「変らぬ色をしるべにてこそ、斎垣も越えはべりにけれ。さも心憂く」 と聞こえたまへば、 |
「こちらでは、簀子に上がるくらいのお許しはございましょうか」 と言って、上がっておすわりになった。 明るく照り出した夕月夜に、立ち居振る舞いなさるご様子、美しさに、似るものがなく素晴らしい。幾月ものご無沙汰を、もっともらしく言い訳申し上げなさるのも、面映ゆいほどになってしまったので、榊を少し折って持っていらしたのを、差し入れて、 「変わらない心に導かれて、禁制の垣根も越えて参ったのです。何とも薄情な」 と申し上げなさると、 |
「神垣はしるしの杉もなきものを いかにまがへて折れる榊ぞ」 と聞こえたまへば、 |
「ここには人の訪ねる目印の杉もないのに どう間違えて折って持って来た榊なのでしょう」 と申し上げなさると、 |
「少女子があたりと思へば榊葉の 香をなつかしみとめてこそ折れ」 おほかたのけはひわづらはしけれど、御簾ばかりはひき着て、長押におしかかりてゐたまへり。 |
「少女子がいる辺りだと思うと 榊葉が慕わしくて探し求めて折ったのです」 周囲の雰囲気は憚られるが、御簾だけを引き被って、長押に持たれかかって座っていらっしゃった。 |
心にまかせて見たてまつりつべく、人も慕ひざまに思したりつる年月は、のどかなりつる御心おごりに、さしも思されざりき。 また、心のうちに、「いかにぞや、疵ありて」、思ひきこえたまひにし後、はた、あはれもさめつつ、かく御仲も隔たりぬるを、めづらしき御対面の昔おぼえたるに、「あはれ」と、思し乱るること限りなし。来し方、行く先、思し続けられて、心弱く泣きたまひぬ。 |
思いのままにお目にかかることができ、相手も慕っているようにお思いになっていらっしゃった年月の間は、のんびりといい気になって、それほどまでご執心なさらなかった。 また一方、心の中に、「いかがなものか、欠点があって」と、お思い申してから後、やはり、情愛も次第に褪めて、このように仲も離れてしまったのを、久しぶりのご対面が昔のことを思い出させるので、「ああ」と、悩ましさで胸が限りなくいっぱいになる。今までのこと、将来のこと、それからそれへとお思い続けられて、心弱く泣いてしまった。 |
女は、さしも見えじと思しつつむめれど、え忍びたまはぬ御けしきを、いよいよ心苦しう、なほ思しとまるべきさまにぞ、聞こえたまふめる。 |
女は、そうとは見せまいと気持ちを抑えていられるようだが、とても我慢がおできになれないご様子を、ますますお気の毒に、やはりお思い止まるように、お制止申し上げになるようである。 |
月も入りぬるにや、あはれなる空を眺めつつ、怨みきこえたまふに、ここら思ひ集めたまへるつらさも消えぬべし。やうやう、「今は」と、思ひ離れたまへるに、「さればよ」と、なかなか心動きて、思し乱る。 |
月も入ったのであろうか、しみじみとした空を物思いに耽って見つめながら、恨み言を申し上げなさると、積もり積もっていらした恨みもきっと消えてしまうことだろう。だんだんと、「今度が最後」と、未練を断ち切って来られたのに、「やはり思ったとおりだ」と、かえって心が揺れて、お悩みになる。 |
殿上の若君達などうち連れて、とかく立ちわづらふなる庭のたたずまひも、げに艶なるかたに、うけばりたるありさまなり。思ほし残すことなき御仲らひに、聞こえ交はしたまふことども、まねびやらむかたなし。 |
殿上の若公達などが連れ立って、何かと佇んでは心惹かれたという庭の風情も、なるほど優艶という点では、どこの庭にも負けない様子である。物のあわれの限りを尽くしたお二人の間柄で、お語らいになった内容、そのまま筆に写すことはできない。 |
やうやう明けゆく空のけしき、ことさらに作り出でたらむやうなり。 「暁の別れはいつも露けきを こは世に知らぬ秋の空かな」 出でがてに、御手をとらへてやすらひたまへる、いみじうなつかし。 |
だんだんと明けて行く空の風情、特別に作り出したかのようである。 「明け方の別れにはいつも涙に濡れたが 今朝の別れは今までにない涙に曇る秋の空ですね」 帰りにくそうに、お手を捉えてためらっていられる、たいそう優しい。 |
風、いと冷やかに吹きて、松虫の鳴きからしたる声も、折知り顔なるを、さして思ふことなきだに、聞き過ぐしがたげなるに、まして、わりなき御心惑ひどもに、なかなか、こともゆかぬにや。 「おほかたの秋の別れも悲しきに 鳴く音な添へそ野辺の松虫」 悔しきこと多かれど、かひなければ、明け行く空もはしたなうて、出でたまふ。道のほどいと露けし。 |
風、とても冷たく吹いて、松虫が鳴き嗄らした声も、気持ちを知っているかのようなのを、それほど物思いのない者でさえ、聞き過ごしがたいのに、まして、どうしようもないほど思い乱れていらっしゃるお二人には、かえって、歌も思うように行かないのだろうか。 「ただでさえ秋の別れというものは悲しいものなのに さらに鳴いて悲しませてくれるな野辺の松虫よ」 悔やまれることが多いが、しかたのないことなので、明けて行く空も体裁が悪くて、お帰りになる。道程はまことに露っぽい。 |
女も、え心強からず、名残あはれにて眺めたまふ。ほの見たてまつりたまへる月影の御容貌、なほとまれる匂ひなど、若き人びとは身にしめて、あやまちもしつべく、めできこゆ。 「いかばかりの道にてか、かかる御ありさまを見捨てては、別れきこえむ」 と、あいなく涙ぐみあへり。 |
女も、気強くいられず、その後の物思いに沈んでいらっしゃる。ほのかに拝見なさった月の光に照らされたお姿、まだ残っている匂いなど、若い女房たちは身に染みて、心得違いをしかねないほど、お褒め申し上げる。 「どれほどの余儀ない旅立ちだからといっても、あのようなお方をお見限って、お別れ申し上げられようか」 と、わけもなく涙ぐみ合っていた。 |