第一章 光る源氏の物語 逝く春と離別の物語
5.
旅生活の準備と身辺整理
本文 |
現代語訳 |
よろづのことどもしたためさせたまふ。親しう仕まつり、世になびかぬ限りの人びと、殿の事とり行なふべき上下、定め置かせたまふ。御供に慕ひきこゆる限りは、また選り出でたまへり。 |
何から何まで整理をおさせになる。親しくお仕えし、時勢に靡かない家臣たちだけの、邸の事務を執り行うべき上下の役目、お決め置きになる。お供に随行申し上げる者は皆、別にお選びになった。 |
かの山里の御住みかの具は、えさらずとり使ひたまふべきものども、ことさらよそひもなくことそぎて、さるべき書ども『文集』など入りたる箱、さては琴一つぞ持たせたまふ。所狭き御調度、はなやかなる御よそひなど、さらに具したまはず、あやしの山賤めきてもてなしたまふ。 |
あの山里の生活の道具は、どうしてもご必要な品物類を、特に飾りけなく簡素にして、しかるべき漢籍類、『白氏文集』などの入った箱、その他には琴を一張を持たせなさる。大げさなご調度類や、華やかなお装いなどは、まったくお持ちにならず、賎しい山里人のような振る舞いをなさる。 |
さぶらふ人びとよりはじめ、よろづのこと、みな西の対に聞こえわたしたまふ。領じたまふ御荘、御牧よりはじめて、さるべき所々、券など、みなたてまつり置きたまふ。それよりほかの御倉町、納殿などいふことまで、少納言をはかばかしきものに見置きたまへれば、親しき家司ども具して、しろしめすべきさまどものたまひ預く。 |
お仕えしている女房たちをはじめ、万事、すべて西の対にお頼み申し上げなさる。ご所領の荘園、牧場をはじめとして、しかるべき領地、証文など、すべて差し上げ置きなさる。その他の御倉町、納殿などという事まで、少納言を頼りになる者と見込んでいらっしゃるので、腹心の家司たちを付けて、取りしきられるように命じて置きなさる。 |
わが御方の中務、中将などやうの人びと、つれなき御もてなしながら、見たてまつるほどこそ慰めつれ、「何ごとにつけてか」と思へども、 「命ありてこの世にまた帰るやうもあらむを、待ちつけむと思はむ人は、こなたにさぶらへ」 とのたまひて、上下、皆参う上らせたまふ。 |
ご自身方の中務、中将などといった女房たち、何気ないお扱いとはいえ、お身近にお仕えしていた間は慰めることもできたが、「何を期待してか」と思うが、 「生きてこの世に再び帰って来るようなこともあろうから、待っていようと思う者は、こちらに伺候しなさい」 とおっしゃって、上下の女房たち、皆参上させなさる。 |
若君の御乳母たち、花散里なども、をかしきさまのはさるものにて、まめまめしき筋に思し寄らぬことなし。 |
若君の乳母たち、花散里などにも、風情のある品物はもちろんのこと、実用品までお気のつかない事がない。 |
尚侍の御もとに、わりなくして聞こえたまふ。 「問はせたまはぬも、ことわりに思ひたまへながら、今はと、世を思ひ果つるほどの憂さもつらさも、たぐひなきことにこそはべりけれ。 |
尚侍の君の御許に、困難をおかしてお便りを差し上げなさる。 「お見舞いくださらないのも、ごもっともに存じられますが、今は最後と、この世を諦めた時の嫌で辛い思いも、何とも言いようがございません。 |
逢ふ瀬なき涙の河に沈みしや 流るる澪の初めなりけむ |
あなたに逢えないことに涙を流したことが 流浪する身の上となるきっかけだったのでしょうか |
と思ひたまへ出づるのみなむ、罪逃れがたうはべりける」 道のほども危ふければ、こまかには聞こえたまはず。 女、いといみじうおぼえたまひて、忍びたまへど、御袖よりあまるも所狭うなむ。 |
と思い出される事だけが、罪も逃れ難い事でございます」 届くかどうか不安なので、詳しくはお書きにならない。 女、大層悲しく思われなさって、堪えていらしたが、お袖から涙がこぼれるのもどうしようもない。 |
「涙河浮かぶ水泡も消えぬべし 流れて後の瀬をも待たずて」 |
「涙川に浮かんでいる水泡も消えてしまうでしょう 生きながらえて再びお会いできる日を待たないで」 |
泣く泣く乱れ書きたまへる御手、いとをかしげなり。今ひとたび対面なくやと思すは、なほ口惜しけれど、思し返して、憂しと思しなすゆかり多うて、おぼろけならず忍びたまへば、いとあながちにも聞こえたまはずなりぬ。 |
泣く泣く心乱れてお書きになったご筆跡、まことに深い味わいがある。もう一度お逢いできないものかとお思いになるのは、やはり残念に思われるが、お考え直して、ひどいとお思いになる一族が多くて、一方ならず人目を忍んでいらっしゃるので、あまり無理をしてまでお便り申し上げることもなさらずに終わった。 |