第四章 光る源氏の物語 信仰生活と神の啓示の物語
2.
上巳の祓と嵐
本文 |
現代語訳 |
弥生の朔日に出で来たる巳の日、 「今日なむ、かく思すことある人は、御禊したまふべき」 と、なまさかしき人の聞こゆれば、海づらもゆかしうて出でたまふ。いとおろそかに、軟障ばかりを引きめぐらして、この国に通ひける陰陽師召して、祓へせさせたまふ。舟にことことしき人形乗せて流すを見たまふに、よそへられて、 |
三月の上旬にめぐって来た巳の日に、 「今日は、このようにご心労のある方は、御禊をなさるのがようございます」 と、知ったかぶりの人が申し上げるので、海辺も見たくてお出かけになる。ひどく簡略に、軟障だけを引きめぐらして、この国に行き来していた陰陽師を召して、祓いをおさせなになる。舟に仰々しい人形を乗せて流すのを御覧になるにつけても、わが身になぞらえられて、 |
「知らざりし大海の原に流れ来て ひとかたにやはものは悲しき」 |
「見も知らなかった大海原に流れきて 人形に一方ならず悲しく思われることよ」 |
とて、ゐたまへる御さま、さる晴れに出でて、言ふよしなく見えたまふ。 海の面うらうらと凪ぎわたりて、行方も知らぬに、来し方行く先思し続けられて、 |
と詠んで、じっとしているご様子、かかる広く明るい所に出て、何とも言いようのないほど素晴らしくお見えになる。 海の表面もうららかに凪わたって、際限も分からないので、過去のこと将来のことが次々と胸に浮かんできて、 |
「八百よろづ神もあはれと思ふらむ 犯せる罪のそれとなければ」 |
「八百万の神々もわたしを哀れんでくださるでしょう これといって犯した罪はないのだから」 |
とのたまふに、にはかに風吹き出でて、空もかき暮れぬ。御祓へもし果てず、立ち騒ぎたり。肱笠雨とか降りきて、いとあわたたしければ、みな帰りたまはむとするに、笠も取りあへず。さる心もなきに、よろづ吹き散らし、またなき風なり。波いといかめしう立ちて、人びとの足をそらなり。海の面は、衾を張りたらむやうに光り満ちて、雷鳴りひらめく。落ちかかる心地して、からうしてたどり来て、 「かかる目は見ずもあるかな」 「風などは吹くも、けしきづきてこそあれ。あさましうめづらかなり」 と惑ふに、なほ止まず鳴りみちて、雨の脚当たる所、徹りぬべく、はらめき落つ。「かくて世は尽きぬるにや」と、心細く思ひ惑ふに、君は、のどやかに経うち誦じておはす。 |
とお詠みになると、急に風が吹き出して、空もまっ暗闇になった。お祓いもし終えないで、騒然となった。肱笠雨とかいうものが降ってきて、ひどくあわただしいので、皆がお帰りになろうとするが、笠も手に取ることができない。こうなろうとは思いもしなかったが、いろいろと吹き飛ばし、またとない大風である。波がひどく荒々しく立ってきて、人々の足も空に浮いた感じである。海の表面は、衾を広げたように一面にきらきら光って、雷が鳴りひらめく。落ちてきそうな気がして、やっとのことで、家にたどり着いて、 「このような目には遭ったこともないな」 「風などは、吹くが、前触れがあって吹くものだ。思いもせぬ珍しいことだ」 と困惑しているが、依然として止まず鳴りひらめいて、雨脚の当たる所、地面を突き通してしまいそうに、音を立てて落ちてくる。「こうして世界は滅びてしまうのだろうか」と、心細く思いうろたえているが、君は、落ち着いて経を誦していらっしゃる。 |
暮れぬれば、雷すこし鳴り止みて、風ぞ、夜も吹く。 「多く立てつる願の力なるべし」 「今しばし、かくあらば、波に引かれて入りぬべかりけり」 「高潮といふものになむ、とりあへず人そこなはるるとは聞けど、いと、かかることは、まだ知らず」 と言ひあへり。 |
日が暮れたので、雷は少し鳴り止んだが、風は、夜も吹いている。 「たくさん立てた願の力なのでしょう」 「もうしばらくこのままだったら、波に呑みこまれて海に入ってしまうところだった」 「高潮というものに、何を取る余裕もなく人の命がそこなわれるとは聞いているが、まこと、このようなことは、まだ見たこともない」 と言い合っていた。 |
暁方、みなうち休みたり。君もいささか寝入りたまへれば、そのさまとも見えぬ人来て、 「など、宮より召しあるには参りたまはぬ」 とて、たどりありくと見るに、おどろきて、「さは、海の中の龍王の、いといたうものめでするものにて、見入れたるなりけり」と思すに、いとものむつかしう、この住まひ堪へがたく思しなりぬ。 |
明け方、みな寝んでいた。君もわずかに寝入りなさると、誰ともわからない者が来て、 「どうして、宮からお召しがあるのに参らないのか」 と言って、手探りで捜してしるように見ると、目が覚めて、「さては海龍王が、美しいものがひどく好きなもので、魅入ったのであったな」とお思いになると、とても気味が悪く、ここの住まいが耐えられなくお思いになった。 |