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明石

第四章 明石の君の物語 明石の浦の別れの秋の物語

4. 離別の朝

 

本文

現代語訳

 立ちたまふ暁は、夜深く出でたまひて、御迎への人びとも騒がしければ、心も空なれど、人まをはからひて、

 ご出立になる朝は、まだ夜の深いうちにお出になって、お迎えの人々も騒がしいので、心も上の空であるが、人のいない隙間を見はからって、

 「うち捨てて立つも悲しき浦波の

   名残いかにと思ひやるかな」

 「あなたを置いて明石の浦を旅立つわたしも悲しい気がしますが

   後に残ったあなたはさぞやどのような気持ちでいられるかお察しします」

 御返り、

 お返事は、

 「年経つる苫屋も荒れて憂き波の

   返る方にや身をたぐへまし」

 「長年住みなれたこの苫屋も、あなた様が立ち去った後は荒れはてて

   つらい思いをしましょうから、いっそ打ち返す波に身を投げてしまおうかしら」

 と、うち思ひけるままなるを見たまふに、忍びたまへど、ほろほろとこぼれぬ。心知らぬ人びとは、

  「なほかかる御住まひなれど、年ごろといふばかり馴れたまへるを、今はと思すは、さもあることぞかし」

  など見たてまつる。

  良清などは、「おろかならず思すなめりかし」と、憎くぞ思ふ。

 と、気持ちのままなのを御覧になると、堪えていらっしゃったが、ほろほろと涙がこぼれてしまった。事情を知らない人々は、

  「やはりこのようなお住まいであるが、一年ほどもお住み馴れになったので、いよいよ立ち去るとなると、悲しくお思いになるのももっともなことだ」

  などと、拝見する。

  良清などは、「並々ならずお思いでいらっしゃるようだ」と、いまいましく思っている。

 うれしきにも、「げに、今日を限りに、この渚を別るること」などあはれがりて、口々しほたれ言ひあへることどもあめり。されど、何かはとてなむ。

 嬉しいにつけても、「なるほど、今日限りで、この浦を去ることよ」などと、名残を惜しみ合って、口々に涙ぐんで挨拶をし合っているようだ。けれど、いちいちお話する必要もあるまい。

 入道、今日の御まうけ、いといかめしう仕うまつれり。人びと、下の品まで、旅の装束めづらしきさまなり。いつの間にかしあへけむと見えたり。御よそひは言ふべくもあらず。御衣櫃あまたかけさぶらはす。まことの都の苞にしつべき御贈り物ども、ゆゑづきて、思ひ寄らぬ隈なし。今日たてまつるべき狩の御装束に、

 入道、今日のお支度を、たいそう盛大に用意した。お供の人々、下々のまで、旅の装束を立派に整えてある。いつの間にこんなに準備したのだろうかと思われた。ご装束はいうまでもない。御衣櫃を幾棹となく荷なわせお供をさせる。実に都への土産にできるお贈り物類、立派な物で、気のつかないところがない。今日お召しになるはずの狩衣のご装束に、

 「寄る波に立ちかさねたる旅衣

   しほどけしとや人の厭はむ」

 「ご用意致しました旅のご装束は寄る波の

   涙に濡れていまので、嫌だとお思いになりましょうか」

 とあるを御覧じつけて、騒がしけれど、

 とあるのを御発見なさって、騒がしい最中であるが、

 「かたみにぞ換ふべかりける逢ふことの

   日数隔てむ中の衣を」

 「お互いに形見として着物を交換しましょう

   また逢える日までの間の二人の仲の、この中の衣を」

 とて、「心ざしあるを」とて、たてまつり替ふ。御身になれたるどもを遣はす。げに、今一重偲ばれたまふべきことを添ふる形見なめり。えならぬ御衣に匂ひの移りたるを、いかが人の心にも染めざらむ。

  入道、

  「今はと世を離れはべりにし身なれども、今日の御送りに仕うまつらぬこと」

  など申して、かひをつくるもいとほしながら、若き人は笑ひぬべし。

 とおっしゃって、「せっかくの好意だから」と言って、お召し替えになる。お身につけていらしたのをお遣わしになる。なるほど、もう一つお偲びになるよすがを添えた形見のようである。素晴らしいお召し物に移り香が匂っているのを、どうして相手の心にも染みないことがあろうか。

  入道は、

  「きっぱりと世を捨てました出家の身ですが、今日のお見送りにお供申しませんことが」

  などと申し上げて、べそをかいているのも気の毒だが、若い人ならきっと笑ってしまうであろう。

 「世をうみにここらしほじむ身となりて

   なほこの岸をえこそ離れね

 「世の中が嫌になって長年この海浜の汐風に吹かれて暮らして来たが

   なお依然として子の故に此岸を離れることができずにおります

 心の闇は、いとど惑ひぬべくはべれば、境までだに」と聞こえて、

  「好き好きしきさまなれど、思し出でさせたまふ折はべらば」

  など、御けしき賜はる。いみじうものをあはれと思して、所々うち赤みたまへる御まみのわたりなど、言はむかたなく見えたまふ。

  「思ひ捨てがたき筋もあめれば、今いととく見直したまひてむ。ただこの住みかこそ見捨てがたけれ。いかがすべき」とて、

 娘を思う親の心は、ますます迷ってしまいそうでございますから、せめて国境までなりとも」と申し上げて、

  「あだめいた事を申すようでございますが、もしお思い出しあそばすことがございましたら」

  などと、ご内意を頂戴する。たいそう気の毒にお思いになって、お顔の所々を赤くしていらっしゃるお目もとのあたりがなどが、何ともいいようなくお見えになる。

  「放っておきがたい事情もあるので、きっと今すぐにお思い直しくださるでしょう。ただ、この住まいが見捨てがたいのです。どうしたものでしょう」とおっしゃって、

 「都出でし春の嘆きに劣らめや

   年経る浦を別れぬる秋」

 「都を立ち去ったあの春の悲しさに決して劣ろうか

   年月を過ごしてきたこの浦を離れる悲しい秋は」

 とて、おし拭ひたまへるに、いとどものおぼえず、しほたれまさる。立ちゐもあさましうよろぼふ。

 とお詠みになって、涙を拭っていらっしゃると、ますます分別を失って、涙をさらに流す。立居もままならず転びそうになる。



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