第四章 明石の君の物語 明石の浦の別れの秋の物語
3.
離別間近の日
本文 |
現代語訳 |
明後日ばかりになりて、例のやうにいたくも更かさで渡りたまへり。さやかにもまだ見たまはぬ容貌など、「いとよしよししう、気高きさまして、めざましうもありけるかな」と、見捨てがたく口惜しう思さる。「さるべきさまにして迎へむ」と思しなりぬ。さやうにぞ語らひ慰めたまふ。 |
明後日ほどになって、いつものようにあまり夜が更けないうちにお越しになった。まだはっきりと御覧になっていない容貌などを、「とても風情があり、気高い様子をしていて、目を見張るような美しさだ」と、見捨てにくく残念にお思いになる。「しかるべき手筈を整えて迎えよう」とお考えになった。そのように約束してお慰めになる。 |
男の御容貌、ありさまはた、さらにも言はず。年ごろの御行なひにいたく面痩せたまへるしも、言ふ方なくめでたき御ありさまにて、心苦しげなるけしきにうち涙ぐみつつ、あはれ深く契りたまへるは、「ただかばかりを、幸ひにても、などか止まざらむ」とまでぞ見ゆめれど、めでたきにしも、我が身のほどを思ふも、尽きせず。波の声、秋の風には、なほ響きことなり。塩焼く煙かすかにたなびきて、とりあつめたる所のさまなり。 |
男のお顔だち、お姿は、改めていうまでもない。長い間のご勤行にひどく面痩せなさっていらっしゃるのが、いいようもなく立派なご様子で、痛々しいご様子に涙ぐみながら、しみじみと固いお約束なさるのは、「ただ一時の逢瀬でも、幸せと思って、諦めてもいいではないか」とまで思われもするが、ご立派さにつけて、わが身のほどを思うと、悲しみは尽きない。波の音、秋の風の中では、やはり響きは格別である。塩焼く煙が、かすかにたなびいて、何もかもが悲しい所の様子である。 |
「このたびは立ち別るとも藻塩焼く 煙は同じ方になびかむ」 |
「今はいったんお別れしますが、藻塩焼く煙のように 上京したら一緒に暮らしましょう」 |
とのたまへば、 |
とお詠みになると、 |
「かきつめて海人のたく藻の思ひにも 今はかひなき恨みだにせじ」 |
「何とも悲しい気持ちでいっぱいですが 今は申しても甲斐のないこと、お恨みはいたしません」 |
あはれにうち泣きて、言少ななるものから、さるべき節の御応へなど浅からず聞こゆ。この、常にゆかしがりたまふ物の音など、さらに聞かせたてまつらざりつるを、いみじう恨みたまふ。 「さらば、形見にも偲ぶばかりの一琴をだに」 とのたまひて、京より持ておはしたりし琴の御琴取りに遣はして、心ことなる調べをほのかにかき鳴らしたまへる、深き夜の澄めるは、たとへむ方なし。 |
せつなげに涙ぐんで、言葉少なではあるが、しかるべきお返事などは心をこめて申し上げる。あの、いつもお聴きになりたがっていらした琴の音色など、まったくお聴かせ申さなかったのを、たいそうお恨みになる。 「それでは、形見として思い出になるよう、一節だけでも」 とおっしゃって、京から持っていらした琴のお琴を取りにやって、格別に風情のある一曲をかすかに掻き鳴らしていらっしゃる、夜更けの澄んだ音色は、たとえようもなく素晴しい。 |
入道、え堪へで箏の琴取りてさし入れたり。みづからも、いとど涙さへそそのかされて、とどむべき方なきに、誘はるるなるべし、忍びやかに調べたるほど、いと上衆めきたり。入道の宮の御琴の音を、ただ今のまたなきものに思ひきこえたるは、「今めかしう、あなめでた」と、聞く人の心ゆきて、容貌さへ思ひやらるることは、げに、いと限りなき御琴の音なり。 |
入道も、たまりかねて箏の琴を取って差し入れた。娘自身も、ますます涙まで催されて、止めようもないので、気持ちをそそられるのであろう、ひっそりと音色を調べた具合、まことに気品のある奏法である。入道の宮のお琴の音色を、今の世に類のないものとお思い申し上げていたのは、「当世風で、ああ、素晴らしい」と、聴く人の心がほれぼれとして、御器量までが自然と想像されることは、なるほど、まことにこの上ないお琴の音色である。 |
これはあくまで弾き澄まし、心にくくねたき音ぞまされる。この御心にだに、初めてあはれになつかしう、まだ耳なれたまはぬ手など、心やましきほどに弾きさしつつ、飽かず思さるるにも、「月ごろ、など強ひても、聞きならさざりつらむ」と、悔しう思さる。心の限り行く先の契りをのみしたまふ。 「琴は、また掻き合はするまでの形見に」 とのたまふ。女、 |
これはどこまでも冴えた音色で、奥ゆかしく憎らしいほど音色が優れていた。この君でさえ、初めてしみじみと心惹きつけられる感じで、まだお聴きつけにならない曲などを、もっと聴いていたいと感じさせる程度に、弾き止め弾き止めして、物足りなくお思いになるにつけても、「いく月も、どうして無理してでも、聴き親しまなかったのだろう」と、残念にお思いになる。心をこめて将来のお約束をなさるばかりである。 「琴は、再び掻き合わせをするまでの形見に」 とおっしゃる。女、 |
「なほざりに頼め置くめる一ことを 尽きせぬ音にやかけて偲ばむ」 |
「軽いお気持ちでおっしゃるお言葉でしょうが その一言を悲しくて泣きながら心にかけて、お偲び申します」 |
言ふともなき口すさびを、恨みたまひて、 |
と言うともなく口ずさみなさるのを、お恨みになって、 |
「逢ふまでのかたみに契る中の緒の 調べはことに変はらざらなむ |
「今度逢う時までの形見に残した琴の中の緒の調子のように 二人の仲の愛情も、格別変わらないでいて欲しいものです |
この音違はぬさきにかならずあひ見む」 と頼めたまふめり。されど、ただ別れむほどのわりなさを思ひ咽せたるも、いとことわりなり。 |
この琴の絃の調子が狂わないうちに必ず逢いましょう」 とお約束なさるようである。それでも、ただ別れる時のつらさを思ってむせび泣いているのも、まことに無理はない。 |