第五章 夕霧の物語 幼恋の物語
1. 夕霧と雲居雁の恋の煩悶
本文 |
現代語訳 |
「いとど文なども通はむことのかたきなめり」と思ふに、いと嘆かしう、物参りなどしたまへど、さらに参らで、寝たまひぬるやうなれど、心も空にて、人静まるほどに、中障子を引けど、例はことに鎖し固めなどもせぬを、つと鎖して、人の音もせず。いと心細くおぼえて、障子に寄りかかりてゐたまへるに、女君も目を覚まして、風の音の竹に待ちとられて、うちそよめくに、雁の鳴きわたる声の、ほのかに聞こゆるに、幼き心地にも、とかく思し乱るるにや、 |
「今後いっそうお手紙などを交わすことは難しいだろう」と考えると、とても嘆かわしく、食事を差し上げても、少しも召し上がらず、お寝みになってしまったふうにしているが、心も落ち着かず、人が寝静まったころに、中障子を引いてみたが、いつもは特に錠など下ろしていないのに、固く錠さして、女房の声も聞こえない。実に心細く思われて、障子に寄りかかっていらっしゃると、女君も目を覚まして、風の音が竹に待ち迎えられて、さらさらと音を立てると、雁が鳴きながら飛んで行く声が、かすかに聞こえるので、子供心にも、あれこれとお思い乱れるのであろうか、 |
「雲居の雁もわがごとや」 |
「雲居の雁もわたしのようなのかしら」 |
と、独りごちたまふけはひ、若うらうたげなり。 いみじう心もとなければ、 |
と、独り言をおっしゃる様子、若々しくかわいらしい。 とてももどかしくてならないので、 |
「これ、開けさせたまへ。小侍従やさぶらふ」 |
「ここを、お開け下さい。小侍従はおりますか」 |
とのたまへど、音もせず。御乳母子なりけり。独り言を聞きたまひけるも恥づかしうて、あいなく御顔も引き入れたまへど、あはれは知らぬにしもあらぬぞ憎きや。乳母たちなど近く臥して、うちみじろくも苦しければ、かたみに音もせず。 |
とおっしゃるが、返事がない。乳母子だったのである。独り言をお聞きになったのも恥ずかしくて、わけなく顔を衾の中にお入れなさったが、恋心は知らないでもないとは憎いことよ。乳母たちが近くに臥せっていて、起きていることに気づかれるのもつらいので、お互いに音を立てない。 |
「さ夜中に友呼びわたる雁が音に うたて吹き添ふ荻の上風」 |
「真夜中に友を呼びながら飛んでいく雁の声に さらに悲しく吹き加わる荻の上を吹く風よ」 |
「身にしみけるかな」と思ひ続けて、宮の御前に帰りて嘆きがちなるも、「御目覚めてや聞かせたまふらむ」とつつましく、みじろき臥したまへり。 |
「身にしみて感じられることだ」と思い続けて、大宮の御前に帰って嘆きがちでいらっしゃるのも、「お目覚めになってお聞きになろうか」と憚られて、もじもじしながら臥せった。 |
あいなくもの恥づかしうて、わが御方にとく出でて、御文書きたまへれど、小侍従もえ逢ひたまはず、かの御方ざまにもえ行かず、胸つぶれておぼえたまふ。 |
むやみに何となく恥ずかしい気がして、ご自分のお部屋に早く出て、お手紙をお書きになったが、小侍従にも会うことがおできになれず、あの姫君の方にも行くことがおできになれず、たまらない思いでいらっしゃる。 |
女はた、騒がれたまひしことのみ恥づかしうて、「わが身やいかがあらむ、人やいかが思はむ」とも深く思し入れず、をかしうらうたげにて、うち語らふさまなどを、疎ましとも思ひ離れたまはざりけり。 |
女は女でまた、騒がれなさったことばかり恥ずかしくて、「自分の身はどうなるのだろう、世間の人はどのように思うだろう」とも深くお考えにならず、美しくかわいらしくて、ちょっと噂していることにも、嫌な話だとお突き放しになることもないのであった。 |
また、かう騒がるべきこととも思さざりけるを、御後見どももいみじうあはめきこゆれば、え言も通はしたまはず。おとなびたる人や、さるべき隙をも作り出づらむ、男君も、今すこしものはかなき年のほどにて、ただいと口惜しとのみ思ふ。 |
また、このように騒がれねばならないことともお思いでなかったのを、御後見人たちがひどく注意するので、文通をすることもおできになれない。大人であったら、しかるべき機会を作るであろうが、男君も、まだ少々頼りない年頃なので、ただたいそう残念だとばかり思っている。 |