第二章 玉鬘の物語 大夫監の求婚と筑紫脱出
5. 都に帰着
本文 |
現代語訳 |
「かく、逃げぬるよし、おのづから言ひ出で伝へば、負けじ魂にて、追ひ来なむ」と思ふに、心も惑ひて、早舟といひて、さまことになむ構へたりければ、思ふ方の風さへ進みて、危ふきまで走り上りぬ。響の灘もなだらかに過ぎぬ。 |
「このように、逃げ出したことが、自然と人の口の端に上って知れたら、負けぬ気を起こして、後を追って来るだろう」と思うと、気もそぞろになって、早舟といって、特別の舟を用意して置いたので、その上あつらえ向きの風までが吹いたので、危ないくらい速くかけ上った。響灘も平穏無事に通過した。 |
「海賊の舟にやあらむ。小さき舟の、飛ぶやうにて来る」 |
「海賊船だろうか。小さい舟が、飛ぶようにしてやって来る」 |
など言ふ者あり。海賊のひたぶるならむよりも、かの恐ろしき人の追ひ来るにやと思ふに、せむかたなし。 |
などと言う者がいる。海賊で向う見ずな乱暴者よりも、あの恐ろしい人が追って来るのではないかと思うと、どうすることもできない気分である。 |
「憂きことに胸のみ騒ぐ響きには 響の灘もさはらざりけり」 |
「嫌なことに胸がどきどきしてばかりいたので それに比べれば響の灘も名前ばかりでした」 |
「川尻といふ所、近づきぬ」 |
「河尻という所に、近づいた」 |
と言ふにぞ、すこし生き出づる心地する。例の、舟子ども、 |
と言うので、少しは生きかえった心地がする。例によって、舟子たちが、 |
「唐泊より、川尻おすほどは」 |
「唐泊から、河尻を漕ぎ行くときは」 |
と歌ふ声の、情けなきも、あはれに聞こゆ。 豊後介、あはれになつかしう歌ひすさみて、 |
と謡う声が、無骨ながらも、心にしみて感じられる。 豊後介がしみじみと親しみのある声で謡って、 |
「いとかなしき妻子も忘れぬ」 |
「とてもいとしい妻や子も忘れてしもた」 |
とて、思へば、 「げにぞ、皆うち捨ててける。いかがなりぬらむ。はかばかしく身の助けと思ふ郎等どもは、皆率て来にけり。我を悪しと思ひて、追ひまどはして、いかがしなすらむ」と思ふに、「心幼くも、顧みせで、出でにけるかな」 と、すこし心のどまりてぞ、あさましき事を思ひ続くるに、心弱くうち泣かれぬ。 |
と謡って、考えてみると、 「なるほど、舟唄のとおり、皆、家族を置いて来たのだ。どうなったことだろうか。しっかりした役に立つと思われる家来たちは、皆連れて来てしまった。私のことを憎いと思って、妻子たちを放逐して、どんな目に遭わせるだろう」と思うと、「浅はかにも、後先のことも考えず、飛び出してしまったことよ」 と、少し心が落ち着いて初めて、とんでもないことをしたことを後悔されて、気弱に泣き出してしまった。 |
「胡の地の妻児をば虚しく棄て捐てつ」 |
「胡の地の妻児をば虚しく棄捐してしまった」 |
と誦ずるを、兵部の君聞きて、 |
と詠じたのを、兵部の君が聞いて、 |
「げに、あやしのわざや。年ごろ従ひ来つる人の心にも、にはかに違ひて逃げ出でにしを、いかに思ふらむ」 と、さまざま思ひ続けらるる。 |
「ほんとうに、おかしなことをしてしまったわ。長年連れ添ってきた夫の心に、突然に背いて逃げ出したのを、どう思っていることだろう」 と、さまざまに思わずにはいられない。 |
「帰る方とても、そこ所と行き着くべき故里もなし。知れる人と言ひ寄るべき頼もしき人もおぼえず。ただ一所の御ためにより、ここらの年つき住み馴れつる世界を離れて、浮べる波風にただよひて、思ひめぐらす方なし。この人をも、いかにしたてまつらむとするぞ」 |
「帰る所といっても、はっきりどこそこと落ち着くべき棲家もない。知り合いだといって頼りにできる人も頭に浮ばない。ただ姫君お一人のために、長い年月住み馴れた土地を離れて、あてどのない波風まかせの旅をして、何をどうしてよいのかわからない。この姫君を、どのようにして差し上げようと思っているのかしら」 |
と、あきれておぼゆれど、「いかがはせむ」とて、急ぎ入りぬ。 |
と、途方に暮れているが、「今さら管うすることもできない」と思って、急いで京に入った。 |