第十二章 柏木の物語 源氏から睨まれる
3. 柏木、女二の宮邸を出る
本文 |
現代語訳 |
ことなくて過ぐす月日は、心のどかにあいな頼みして、いとしもあらぬ御心ざしなれど、今はと別れたてまつるべき門出にやと思ふは、あはれに悲しく、後れて思し嘆かむことのかたじけなきを、いみじと思ふ。母御息所も、いといみじく嘆きたまひて、 |
特別の事がない月日は、のんびりと当てにならない将来のことを当てにして、格別深い愛情もかけなかったが、今が最後と思ってお別れ申し上げる門出であろうかと思うと、しみじみと悲しく、自分に先立たれてお嘆きになるだろうことの恐れ多さを、とても辛いと思う。母御息所も、ひどくお嘆きになって、 |
「世のこととして、親をばなほさるものにおきたてまつりて、かかる御仲らひは、とある折もかかる折も、離れたまはぬこそ例のことなれ、かく引き別れて、たひらかにものしたまふまでも過ぐしたまはむが、心尽くしなるべきことを、しばしここにて、かくて試みたまへ」 |
「世間普通の事として、親は親としてひとまずお立て申しても、このような夫婦のお間柄は、どのような時でも、お離れにならないのが常のことですが、このように離れて、よくお治りになるまであちらでお過ごしになるのが、心配でならないでしょうから、もう暫くこちらで、このままご養生なさって下さい」 |
と、御かたはらに御几帳ばかりを隔てて見たてまつりたまふ。 |
と、お側に御几帳だけを間に置いてご看病なさる。 |
「ことわりや。数ならぬ身にて、及びがたき御仲らひに、なまじひに許されたてまつりて、さぶらふしるしには、長く世にはべりて、かひなき身のほども、すこし人と等しくなるけぢめをもや御覧ぜらるる、とこそ思うたまへつれ、いといみじく、かくさへなりはべれば、深き心ざしをだに御覧じ果てられずやなりはべりなむと思うたまふるになむ、とまりがたき心地にも、え行きやるまじく思ひたまへらるる」 |
「ごもっともなことです。取るに足りない身の上で、及びもつかないご結婚を、なまじお許し頂きまして、こうしてお側におりますその感謝には、長生きをしまして、つまらない身の上も、もう少し人並みとなるところを御覧に入れたいと存じておりましたが、とてもひどく、このようにまでなってしまいましたので、せめて深い愛情だけでも御覧になって頂けずに終わってしまうのではないか存じられまして、生き永らえられそうにない気がするにつけても、まこと安心してあの世に行けそうにも存じられません」 |
など、かたみに泣きたまひて、とみにもえ渡りたまはねば、また母北の方、うしろめたく思して、 |
などと、お互いにお泣きになって、すぐにもお移りにならないので、再び母北の方が、気がかりにお思いになって、 |
「などか、まづ見えむとは思ひたまふまじき。われは、心地もすこし例ならず心細き時は、あまたの中に、まづ取り分きてゆかしくも頼もしくもこそおぼえたまへ。かくいとおぼつかなきこと」 |
「どうして、まずは顔を見せようとはお思いになさらないのだろうか。わたしは、少しでも気分のいつもと違って心細い時は、大勢の子らの中で、まず第一に会いたくなり頼りに思っているのです。このように大変に気がかりなこと」 |
と恨みきこえたまふも、また、いとことわりなり。 |
とお恨み申し上げなさるのも、これもまた、もっともなことである。 |
「人より先なりけるけぢめにや、取り分きて思ひならひたるを、今になほかなしくしたまひて、しばしも見えぬをば苦しきものにしたまへば、心地のかく限りにおぼゆる折しも、見えたてまつらざらむ、罪深く、いぶせかるべし。 |
「他の兄弟より先に生まれたせいでしょうか、特別にかわいがっていたので、今でもやはりいとしくお思いになって、少しの間でも会わないのを辛くお思いになっているので、気分がこのように最期かと思われるような時に、お目にかからないのは、罪障深く、気が塞ぐことでしょう。 |
今はと頼みなく聞かせたまはば、いと忍びて渡りたまひて御覧ぜよ。かならずまた対面賜はらむ。あやしくたゆくおろかなる本性にて、ことに触れておろかに思さるることありつらむこそ、悔しくはべれ。かかる命のほどを知らで、行く末長くのみ思ひはべりけること」 |
今はいよいよ危崙とお聞きあそばしたら、たいそうこっそりお越しになってお会い下さい。必ず再びお会いしましょう。妙に気がつかないふつつかな性分で、何かにつけて疎略な扱いであったとお思いになることがおありだったでしょうと、後悔されます。このような寿命とは知らないで、将来末長くご一緒にとばかり思っておりました」 |
と、泣く泣く渡りたまひぬ。宮はとまりたまひて、言ふ方なく思しこがれたり。 |
と言って、泣き泣きお移りになった。宮はお残りになって、何とも言いようもなく恋い焦がれなさった。 |