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柏木

第五章 夕霧の物語 柏木哀惜    

4. 夕霧、太政大臣邸を訪問   

 

本文

現代語訳

 致仕の大殿に、やがて参りたまへれば、君たちあまたものしたまひけり。

 致仕の大殿に、そのまま参上なさったところ、弟君たちが大勢いらっしゃっていた。

 「こなたに入らせたまへ」

 「こちらにお入りあそばせ」

 とあれば、大臣の御出居の方に入りたまへり。ためらひて対面したまへり。古りがたうきよげなる御容貌、いたう痩せ衰へて、御髭などもとりつくろひたまはねば、しげりて、親の孝よりも、けにやつれたまへり。見たてまつりたまふより、いと忍びがたければ、「あまりにをさまらず乱れ落つる涙こそ、はしたなけれ」と思へば、せめてぞもて隠したまふ。

 と言うので、大臣の御客間の方にお入りになった。悲しみを抑えてご対面なさった。いつまでも若く美しいご容貌、ひどく痩せ衰えて、お髭などもお手入れなさらないので、いっぱい生えて、親の喪に服するよりも憔悴していらっしゃった。お会いなさるや、とても堪え切れないので、「あまりだらしなくこぼす涙は体裁が悪い」と思うので、無理にお隠しになる。

 大臣も、「取り分きて御仲よくものしたまひしを」と見たまふに、ただ降りに降り落ちて、えとどめたまはず、尽きせぬ御事どもを聞こえ交はしたまふ。

 大臣も、「特別仲好くいらしたのに」とお思いになると、ただ涙がこぼれこぼれて、お止めになることができず、語り尽きせぬ悲しみを互いにお話しなさる。

 一条の宮に参でたりつるありさまなど聞こえたまふ。いとどしう、春雨かと見ゆるまで、軒の雫に異ならず、濡らし添へたまふ。畳紙に、かの「柳の芽にぞ」とありつるを、書いたまへるをたてまつりたまへば、「目も見えずや」と、おし絞りつつ見たまふ。

 一条宮邸に参上した様子などを申し上げなさる。ますます、春雨かと思われるまで、軒の雫と違わないほど、いっそう涙をお流しになる。畳紙に、あの「柳の芽に」とあったのを、お書き留めになっていたのを差し上げなさると、「目も見えませんよ」と、涙を絞りながら御覧になる。

 うちひそみつつぞ見たまふ御さま、例は心強うあざやかに、誇りかなる御けしき名残なく、人悪ろし。さるは、異なることなかめれど、この「玉はぬく」とある節の、げにと思さるるに、心乱れて、久しうえためらひたまはず。

 泣き顔をして御覧になるご様子、いつもは気丈できっぱりして、自信たっぷりのご様子もすっかり消えて、体裁が悪い。実のところ、特別良い歌ではないようだが、この「玉が貫く」とあるところが、なるほどと思わずにはいらっしゃれないので、心が乱れて、暫くの間、涙を堪えることができない。

 「君の御母君の隠れたまへりし秋なむ、世に悲しきことの際にはおぼえはべりしを、女は限りありて、見る人少なう、とあることもかかることもあらはならねば、悲しびも隠ろへてなむありける。

 「あなたの母上がお亡くなりになった秋は、本当に悲しみの極みに思われましたが、女性というものはきまりがって、知る人も少なく、あれこれと目立つこともないので、悲しみも表立つことはないのであった。

 はかばかしからねど、朝廷も捨てたまはず、やうやう人となり、官位につけて、あひ頼む人びと、おのづから次々に多うなりなどして、おどろき口惜しがるも、類に触れてあるべし。

 ふつつかな者でしたが、帝もお見捨てにならず、だんだんと一人前になって、官位も昇るにつれて、頼りとする人々が、自然と次々に多くなってきたりして、驚いたり残念に思う者も、いろいろな関係でいることでしょう。

 かう深き思ひは、その大方の世のおぼえも、官位も思ほえず。ただことなることなかりしみづからのありさまのみこそ、堪へがたく恋しかりけれ。何ばかりのことにてか、思ひさますべからむ」

 このように深い嘆きは、その世間一般の評判も、官位のことは考えていません。ただ格別人と変わったところもなかった本人の有様だけが、堪え難く恋しいのです。いったいどのようにして、この悲しみが忘れられるのでしょう」

 と、空を仰ぎて眺めたまふ。

 と言って、空を仰いで物思いに耽っていらっしゃる。

 夕暮の雲のけしき、鈍色に霞みて、花の散りたる梢どもをも、今日ぞ目とどめたまふ。この御畳紙に、

 夕暮の雲の様子、鈍色に霞んで、花の散った梢々を、今日初めて目をお止めになる。さきほどの御畳紙に、

 「木の下の雫に濡れてさかさまに

   霞の衣着たる春かな」

 「木の下の雫に濡れて逆様に

   親が子の喪に服している春です」

 大将の君、

 大将の君、

 「亡き人も思はざりけむうち捨てて

   夕べの霞君着たれとは」

 「亡くなった人も思わなかったことでしょう

   親に先立って父君に喪服を着て戴こうとは」

 弁の君、

 弁の君、

 「恨めしや霞の衣誰れ着よと

   春よりさきに花の散りけむ」

 「恨めしいことよ、墨染の衣を誰が着ようと思って

   春より先に花は散ってしまったのでしょう」

 御わざなど、世の常ならず、いかめしうなむありける。大将殿の北の方をばさるものにて、殿は心ことに、誦経なども、あはれに深き心ばへを加へたまふ。

 ご法要などは、世間並でなく、立派に催されたのであった。大将殿の北の方はもちろんのこと、殿は特別に、誦経なども手厚くご趣向をお加えなさる。



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