第三章 一条御息所の物語 行き違いの不幸
5. 御息所の嘆き
本文 |
現代語訳 |
かしこには、昨夜もつれなく見えたまひし御けしきを、忍びあへで、後の聞こえをもつつみあへず恨みきこえたまうしを、その御返りだに見えず、今日の暮れ果てぬるを、いかばかりの御心にかはと、もて離れてあさましう、心もくだけて、よろしかりつる御心地、またいといたう悩みたまふ。 |
あちらでは、昨夜も薄情なとお見えになったご様子を、我慢することができないで、後のちの評判をもはばからず恨み申し上げなさったが、そのお返事さえ来ずに、今日がすっかり暮れてしまったのを、どれ程のお気持ちかと、愛想が尽きて、驚きあきれて、心も千々に乱れて、すこしは好ろしかったご気分も、再びたいそうひどくお苦しみになる。 |
なかなか正身の御心のうちは、このふしをことに憂しとも思し、驚くべきことしなければ、ただおぼえぬ人に、うちとけたりしありさまを見えしことばかりこそ口惜しけれ、いとしも思ししまぬを、かくいみじうおぼいたるを、あさましう恥づかしう、明らめきこえたまふ方なくて、例よりももの恥ぢしたまへるけしき見えたまふを、「いと心苦しう、ものをのみ思ほし添ふべかりける」と見たてまつるも、胸つとふたがりて悲しければ、 |
かえってご本人のお気持ちは、このことを特に辛いこととお思いになり、心を動かすほどのことではないので、ただ思いも寄らない方に、気を許した態度で会ったことだけが残念であったが、たいしてお心にかけていなかったのに、このようにひどくお悩みになっているのを、言いようもなく恥ずかしく、弁解申し上げるすべもなくて、いつもよりも恥ずかしがっていらっしゃる様子にお見えになるのを、「とてもお気の毒で、ご心労ばかりがお加わりになって」と拝するにつけても、胸が締めつけられて悲しいので、 |
「今さらにむつかしきことをば聞こえじと思へど、なほ、御宿世とはいひながら、思はずに心幼くて、人のもどきを負ひたまふべきことを。取り返すべきことにはあらねど、今よりは、なほさる心したまへ。 |
「今さら厄介なことは申し上げまいと思いますが、やはり、ご運命とは言いながらも、案外に思慮が甘くて、人から非難されなさることでしょうが。それを元に戻れるものではありませんが、今からは、やはり慎重になさいませ。 |
数ならぬ身ながらも、よろづに育みきこえつるを、今は何事をも思し知り、世の中のとざまかうざまのありさまをも、思したどりぬべきほどに、見たてまつりおきつることと、そなたざまはうしろやすくこそ見たてまつりつれ、なほいといはけて、強き御心おきてのなかりけることと、思ひ乱れはべるに、今しばしの命もとどめまほしうなむ。 |
物の数に入るわが身ではありませんが、いろいろとお世話申し上げてきましたが、今ではどのようなことでもお分かりになり、世の中のあれやこれやの有様も、お分かりになるほどに、お世話申してきたことと、そうした方面は安心だと拝見していましたが、やはりとても幼くて、しっかりしたお心構えがなかったことと、思い乱れておりますので、もう暫く長生きしたく思います。 |
ただ人だに、すこしよろしくなりぬる女の、人二人と見るためしは、心憂くあはつけきわざなるを、ましてかかる御身には、さばかりおぼろけにて、人の近づききこゆべきにもあらぬを、思ひのほかに心にもつかぬ御ありさまと、年ごろも見たてまつり悩みしかど、さるべき御宿世にこそは。 |
普通の人でさえ、多少とも人並みの身分に育った女性で、二人の男性に嫁ぐ例は、感心しない軽薄なことですのに、ましてこのようなご身分では、そのようないい加減なことで、男性がお近づき申してよいことでもないのに、思ってもいませんでした心外なご結婚と、長年来心を痛めてまいりましたが、そのようなご運命であったのでしょう。 |
院より始めたてまつりて、思しなびき、この父大臣にも許いたまふべき御けしきありしに、おのれ一人しも心をたてても、いかがはと思ひ寄りはべりしことなれば、末の世までものしき御ありさまを、わが御過ちならぬに、大空をかこちて見たてまつり過ぐすを、いとかう人のためわがための、よろづに聞きにくかりぬべきことの出で来添ひぬべきが、さても、よその御名をば知らぬ顔にて、世の常の御ありさまにだにあらば、おのづからあり経むにつけても、慰むこともやと、思ひなしはべるを、こよなう情けなき人の御心にもはべりけるかな」 |
院をお始め申して、御賛成なさり、この父大臣にもお許しなさろうとの御内意があったのに、わたし一人が反対を申し上げても、どんなものかと思いよりましたことですが、のちのちまで面白からぬお身の上を、あなたご自身の過ちではないので、天命を恨んでお世話してまいりましたが、とてもこのような相手にとってもあなたにとっても、いろいろと聞きにくい噂が加わって来ましょうが、そうなっても、世間の噂を知らない顔をして、せめて世間並のご夫婦としてお暮らしになれるのでしたら、自然と月日が過ぎて行くうちに、心の安まる時が来ようかと、思う気持ちにもなりましたが、この上ない薄情なお心の方でございますね」 |
と、つぶつぶと泣きたまふ。 |
と、ほろほろとお泣きになる。 |