第二章 玉鬘邸の物語 梅と桜の季節の物語
3. 梅の花盛りに、薫君、玉鬘邸を訪問
本文 |
現代語訳 |
侍従の君、まめ人の名をうれたしと思ひければ、二十余日のころ、梅の花盛りなるに、「匂ひ少なげに取りなされじ。好き者ならはむかし」と思して、藤侍従の御もとにおはしたり。 |
侍従の君、堅物の評判を情けないと思ったので、二十日過ぎのころ、梅の花盛りに、「色恋に無縁な男だと言われまい。風流者をまねしてみよう」とお思いになって、藤侍従のお邸にいらっしゃった。 |
中門入りたまふほどに、同じ直衣姿なる人立てりけり。隠れなむと思ひけるを、ひきとどめたれば、この常に立ちわづらふ少将なりけり。 |
中門をお入りになる時、同じ直衣姿の男が立っているのだった。隠れようと思ったのを、引き止めてみると、あのいつもうろうろしている蔵人少将なのであった。 |
「寝殿の西面に、琵琶、箏の琴の声するに、心を惑はして立てるなめり。苦しげや。人の許さぬこと思ひはじめむは、罪深かるべきわざかな」と思ふ。琴の声もやみぬれば、 |
「寝殿の西面で、琵琶や、箏の琴の音がするので、心をときめかして立っているようである。辛そうだな。親の許さない恋に心を染めることは、罪深いことだな」と思う。琴の音色も止んだので、 |
「いざ、しるべしたまへ。まろは、いとたどたどし」 |
「さあ、案内して下さい。わたしは、とても不案内です」 |
とて、ひき連れて、西の渡殿の前なる紅梅の木のもとに、「梅が枝」をうそぶきて立ち寄るけはひの、花よりもしるく、さとうち匂へれば、妻戸おし開けて、人びと、東琴をいとよく掻き合はせたり。女の琴にて、呂の歌は、かうしも合はせぬを、いたしと思ひて、今一返り、をり返し歌ふ、琵琶も二なく今めかし。 |
と言って、伴って、西の渡殿の前にある紅梅の木の側で、「梅が枝」を口ずさんで立ち寄った様子が、花の香よりもはっきりと、さっと匂ったので、妻戸を押し開けて、女房たちが、和琴をとてもよく合奏していた。女の琴なので、呂の調子の歌は、こうまでうまく合わせられないものなのに、大したものだと思って、もう一度、繰り返して謡うが、琵琶も又となく華やかである。 |
「ゆゑありてもてないたまへるあたりぞかし」と、心とまりぬれば、今宵はすこしうちとけて、はかなしごとなども言ふ。 |
「趣味高く暮らしていらっしゃる邸だ」と、心が止まったので、今宵は少し気を許して、冗談などを言う。 |
内より和琴さし出でたり。かたみに譲りて、手触れぬに、侍従の君して、尚侍の殿、 |
内側から和琴を差し出した。お互いに譲り合って、手を触れないので、藤侍従の君を介して、尚侍の殿が、 |
「故致仕の大臣の御爪音になむ、通ひたまへる、と聞きわたるを、まめやかにゆかしうなむ。今宵は、なほ鴬にも誘はれたまへ」 |
「故致仕の大臣のお爪音に、似ていらっしゃると、ずっと聞いていましたが、ほんとうに聞いてみたいです。今宵は、やはりうぐいすにもお誘われなさい」 |
と、のたまひ出だしたれば、「あまえて爪くふべきことにもあらぬを」と思ひて、をさをさ心にも入らず掻きわたしたまへるけしき、いと響き多く聞こゆ。 |
と、おっしゃたので、「照れて爪をかんでいる場合でもない」と思って、あまり気乗りもせずに掻き鳴らしなさる様子、たいそう響きが多く聞こえる。 |
「常に見たてまつり睦びざりし親なれど、世におはせずなりにきと思ふに、いと心細きに、はかなきことのついでにも思ひ出でたてまつるに、いとなむあはれなる。 |
「いつもお目にかかって親しんだわけではない親ですが、この世にいらっしゃらなくなったと思うと、とても心細くて、ちょっとしたことの機会にもお思い出し申すと、とてもしみじみ悲しいのでした。 |
おほかた、この君は、あやしう故大納言の御ありさまに、いとようおぼえ、琴の音など、ただそれとこそ、おぼえつれ」 |
だいたい、この君は、不思議と故大納言のご様子に、とてもよく似て、琴の音色など、まるでその人かと思われます」 |
とて泣きたまふも、古めいたまふしるしの、涙もろさにや。 |
と言ってお泣きになるのも、お年のせいの、涙もろさであろうか。 |