第四章 薫の物語 中君に同情しながら恋慕の情高まる
5. 中君、薫に宇治への同行を願う
本文 |
現代語訳 |
女君は、人の御恨めしさなどは、うち出で語らひきこえたまふべきことにもあらねば、ただ、世やは憂きなどやうに思はせて、言少なに紛らはしつつ、山里にあからさまに渡したまへとおぼしく、いとねむごろに思ひてのたまふ。 |
女君は、宮の恨めしさなどは、口に出して申し上げなさるようなことでもないので、ただ、自分だけがつらいように思わせて、言葉少なに紛らわしては、山里にこっそりとお連れくださいとのお思いで、たいそう熱心に申し上げなさる。 |
「それはしも、心一つにまかせては、え仕うまつるまじきことにはべり。なほ、宮にただ心うつくしく聞こえさせたまひて、かの御けしきに従ひてなむよくはべるべき。さらずは、すこしも違ひ目ありて、心軽くもなど思しものせむに、いと悪しくはべりなむ。さだにあるまじくは、道のほども御送り迎へも、おりたちて仕うまつらむに、何の憚りかははべらむ。うしろやすく人に似ぬ心のほどは、宮も皆知らせたまへり」 |
「そのことは、わたしの一存では、お世話できないことです。やはり、宮にただ素直にお話し申し上げなさって、あの方のご様子に従うのがよいことです。そうでなかったら、少しでも行き違いが生じて、軽率だなどとお考えになるだろうから、大変悪いことになりましょう。そういう心配さえなければ、道中のお送りや迎えも、自らお世話申しても、何の遠慮がございましょう。安心で人と違った性分は、宮もみなご存知でいらっしゃいました」 |
などは言ひながら、折々は、過ぎにし方の悔しさを忘るる折なく、ものにもがなやと、取り返さまほしきと、ほのめかしつつ、やうやう暗くなりゆくまでおはするに、いとうるさくおぼえて、 |
などと言いながら、時々は、過ぎ去った昔の悔しさが忘れる折もなく、できることなら昔を今に取り戻したいと、ほのめかしながら、だんだん暗くなって行くまでおいでになるので、とてもわずらわしくなって、 |
「さらば、心地も悩ましくのみはべるを、また、よろしく思ひたまへられむほどに、何事も」 |
「それでは、気分も悪くなるばかりですので、また、よおろしくなった折に、どのような事でも」 |
とて、入りたまひぬるけしきなるが、いと口惜しければ、 |
と言って、お入りになってしまった様子なのが、とても残念なので、 |
「さても、いつばかり思し立つべきにか。いとしげくはべし道の草も、すこしうち払はせはべらむかし」 |
「それでは、いつごろにお立ちになるつもりですか。たいそう茂っていた道の草も、少し刈り払わせましょう」 |
と、心とりに聞こえたまへば、しばし入りさして、 |
と機嫌を取って申し上げなさると、少し奥に入りかけて、 |
「この月は過ぎぬめれば、朔日のほどにも、とこそは思ひはべれ。ただ、いと忍びてこそよからめ。何か、世の許しなどことことしく」 |
「今月は終わってしまいそうなので、来月の朔日頃にも、と思っております。ただ、とても人目に立たないのがよいでしょう。どうして、夫の許可など仰々しく必要でしょう」 |
とのたまふ声の、「いみじくらうたげなるかな」と、常よりも昔思ひ出でらるるに、えつつみあへで、寄りゐたまへる柱もとの簾の下より、やをらおよびて、御袖をとらへつ。 |
とおっしゃる声が、「何ともかわいらしいな」と、いつもより亡き大君が思い出されるので、堪えきれないで、寄り掛かっていらっしゃった柱の側の簾の下から、そっと手を伸ばして、お袖を捉えた。 |