第六章 浮舟と薫の物語 薫、浮舟を伴って宇治へ行く
4. 薫、三条の隠れ家の浮舟と逢う
本文 |
現代語訳 |
宵うち過ぐるほどに、「宇治より人参れり」とて、門忍びやかにうちたたく。「さにやあらむ」と思へど、弁の開けさせたれば、車をぞ引き入るなる。「あやし」と思ふに、 |
宵を少し過ぎたころに、「宇治から参った者です」と言って、門をそっと叩く。「そうかしら」と思うが、弁が開けさせると、車を引き入れる。「妙だ」と思うと、 |
「尼君に、対面賜はらむ」 |
「尼君に、お目にかかりたい」 |
とて、この近き御庄の預りの名のりをせさせたまへれば、戸口にゐざり出でたり。雨すこしうちそそくに、風はいと冷やかに吹き入りて、言ひ知らず薫り来れば、「かうなりけり」と、誰れも誰れも心ときめきしぬべき御けはひをかしければ、用意もなくあやしきに、まだ思ひあへぬほどなれば、心騷ぎて、 |
と言って、その近くの荘園の支配人の名を名乗らせなさったので、戸口にいざり出た。雨が少し降りそそいで、風がとても冷やかに吹きこんで、何ともいえない良い匂いが漂ってくるので、「そうであったのか」と、皆が皆心をときめかせるにちがいないご様子が結構なので、心づもりもなくむさくるしいうえに、まだ予想もしていなかった時なので、気が動転して、 |
「いかなることにかあらむ」 |
「どうしたことであろうか」 |
と言ひあへり。 |
と言い合っていた。 |
「心やすき所にて、月ごろの思ひあまることも聞こえさせむとてなむ」 |
「気楽な所で、いく月もの間の抑えきれない思いを申し上げたいと思いまして」 |
と言はせたまへり。 |
と言わせなさった。 |
「いかに聞こゆべきことにか」と、君は苦しげに思ひてゐたまへれば、乳母見苦しがりて、 |
「どのように申し上げたらよいものか」と思って、君はつらそうに思っていらしたので、乳母が見苦しがって、 |
「しかおはしましたらむを、立ちながらや、帰したてまつりたまはむ。かの殿にこそ、かくなむ、と忍びて聞こえめ。近きほどなれば」 |
「このようにいらっしゃったのを、お座りもいただかず、このままお帰し申し上げることができましょうか。あちらの殿にも、こうです、とそっと申し上げましょう。近い所ですから」 |
と言ふ。 |
と言う。 |
「うひうひしく。などてか、さはあらむ。若き御どちもの聞こえたまはむは、ふとしもしみつくべくもあらぬを。あやしきまで心のどかに、もの深うおはする君なれば、よも人の許しなくて、うちとけたまはじ」 |
「気がきかないことを。どうして、そうすることがありましょう。若い方どうしがお話し申し上げなさるのに、急に深い仲になるものでもありますまい。不思議なまでに気長で、慎重でいらっしゃる君なので、けっして相手の許しがなくては、気をお許しになりますまい」 |
など言ふほど、雨やや降り来れば、空はいと暗し。宿直人のあやしき声したる、夜行うちして、 |
などと言っているうちに、雨が次第に降って来たので、空はたいそう暗い。宿直人で変な声をした者が、夜警をして、 |
「家の辰巳の隅の崩れ、いと危ふし。この、人の御車入るべくは、引き入れて御門鎖してよ。かかる人の御供人こそ、心はうたてあれ」 |
「家の辰巳の隅の崩れが、とても危険だ。こちらの、客のお車は入れるものなら、引き入れてご門を閉めよ。この客人の供人は、気がきかない」 |
など言ひあへるも、むくむくしく聞きならはぬ心地したまふ。 |
などと言い合っているのも、気持ち悪く聞き馴れない気がなさる。 |
「佐野のわたりに家もあらなくに」 |
「佐野の辺りに家もないのに」 |
など口ずさびて、里びたる簀子の端つ方に居たまへり。 |
などと口ずさんで、田舎めいた簀子の端の方に座っていらっしゃった。 |
「さしとむる葎やしげき東屋の あまりほど降る雨そそきかな」 |
「戸口を閉ざすほど葎が茂っているためか 東屋であまりに待たされ雨に濡れることよ」 |
と、うち払ひたまへる、追風、いとかたはなるまで、東の里人も驚きぬべし。 |
と、露を払っていらっしゃる、その追い風が、とても尋常でないほど匂うので、東国の田舎者も驚くにちがいない。 |
とざまかうざまに聞こえ逃れむ方なければ、南の廂に御座ひきつくろひて、入れたてまつる。心やすくしも対面したまはぬを、これかれ押し出でたり。遣戸といふもの鎖して、いささか開けたれば、 |
あれやこれやと言い逃れるすべもないので、南の廂にお座席を設けて、お入れ申し上げる。気安くお会いなさらないのを、誰彼らが押し出した。遣戸という物を錠をかけて、少し開けてあったので、 |
「飛騨の工も恨めしき隔てかな。かかるものの外には、まだ居ならはず」 |
「飛騨の大工までが恨めしい仕切りですね。このような物の外には、まだ座ったことがありません」 |
と愁へたまひて、いかがしたまひけむ、入りたまひぬ。かの人形の願ひものたまはで、ただ、 |
とお嘆きになって、どのようになさったのか、お入りになってしまった。あの人形の願いもおしゃっらず、ただ、 |
「おぼえなき、もののはさまより見しより、すずろに恋しきこと。さるべきにやあらむ、あやしきまでぞ思ひきこゆる」 |
「思いがけず、何かの間から覗き見して以来、何となく恋しいこと。そのような運命であったのか、不思議なまでにお思い申し上げています」 |
とぞ語らひたまふべき。人のさま、いとらうたげにおほどきたれば、見劣りもせず、いとあはれと思しけり。 |
とお口説きになるのであろう。女の様子は、とてもかわいらしくおっとりしているので、見劣りもせず、とてもしみじみとお思いになった。 |