第一章 浮舟の物語 浮舟、入水未遂、横川僧都らに助けられる
2. 僧都、宇治の院の森で妖しい物に出会う
本文 |
現代語訳 |
まづ、僧都渡りたまふ。「いといたく荒れて、恐ろしげなる所かな」と見たまふ。 |
まず、僧都がお越しになる。「とてもひどく荒れて、恐ろしそうな所だな」と御覧になる。 |
「大徳たち、経読め」 |
「大徳たち、読経せよ」 |
などのたまふ。この初瀬に添ひたりし阿闍梨と同じやうなる、何事のあるにか、つきづきしきほどの下臈法師に、火ともさせて、人も寄らぬうしろの方に行きたり。森かと見ゆる木の下を、「疎ましげのわたりや」と見入れたるに、白き物の広ごりたるぞ見ゆる。 |
などとおっしゃる。この初瀬に付いていった阿闍梨と同じような者が、何事があったのか、お供するにふさわしい下臈の法師に、松明を灯させて、人も近寄らない建物の後ろの方に行った。森かと見える木の下を、「気持ち悪い所だ」と見ていると、白い物が広がっているのが見える。 |
「かれは、何ぞ」 |
「あれは、何だ」 |
と、立ち止まりて、火を明くなして見れば、物の居たる姿なり。 |
と、立ち止まって、松明を明るくして見ると、何かが座っているような格好である。 |
「狐の変化したる。憎し。見現はさむ」 |
「狐が化けた物だ。憎い。正体を暴いてやろう」 |
とて、一人は今すこし歩み寄る。今一人は、 |
と言って、一人はもう少し近寄る。もう一人は、 |
「あな、用な。よからぬ物ならむ」 |
「まあ、よしなさい。よくない物であろう」 |
と言ひて、さやうの物退くべき印を作りつつ、さすがになほまもる。頭の髪あらば太りぬべき心地するに、この火ともしたる大徳、憚りもなく、奥なきさまにて、近く寄りてそのさまを見れば、髪は長くつやつやとして、大きなる木のいと荒々しきに寄りゐて、いみじう泣く。 |
と言って、そのような物が引き下がるような印を作りながら、そうは言ってもやはり見つめている。頭の髪があったら太くなりそうな気がするが、この松明を灯した大徳は、恐れもせず、深い考えもなく様子で、近寄ってその様子を見ると、髪は長く艶々として、大きな木の根がとても荒々しくある所に寄りかかって、ひどく泣いている。 |
「珍しきことにもはべるかな。僧都の御坊に御覧ぜさせたてまつらばや」 |
「珍しいことでございますな。僧都の御坊に御覧に入れましょう」 |
と言へば、 |
と言うと、 |
「げに、妖しき事なり」 |
「なるほど、不思議な事だ」 |
とて、一人はまうでて、「かかることなむ」と申す。 |
と言って、一人は参上して、「これこれしかじかです」と申し上げる。 |
「狐の人に変化するとは昔より聞けど、まだ見ぬものなり」 |
「狐が人に化けるということは昔から聞いたが、まだ見たことがないものだ」 |
とて、わざと下りておはす。 |
と言って、わざわざ下りていらっしゃる。 |
かの渡りたまはむとすることによりて、下衆ども、皆はかばかしきは、御厨子所など、あるべかしきことどもを、かかるわたりには急ぐものなりければ、ゐ静まりなどしたるに、ただ四、五人して、ここなる物を見るに、変はることもなし。 |
あちらにお越しになろうとしたところで、下衆どもで、役に立ちそうな者は皆、御厨子所などで、準備すべきことをいろいろと、こちらではかかりきりでいたので、ひっそりしていたので、わずか四、五人で、ここにいる物を見るが、変化する様子も見えない。 |
あやしうて、時の移るまで見る。「疾く夜も明け果てなむ。人か何ぞと、見現はさむ」と、心にさるべき真言を読み、印を作りて試みるに、しるくや思ふらむ、 |
不思議に思って、一時の移るまで見る。「早く夜も明けてほしい。人か何物か、正体を暴こう」と、心中でしかるべき真言を読み、印を作って試みると、はっきり見極めがついたのであろうか、 |
「これは、人なり。さらに非常のけしからぬ物にあらず。寄りて問へ。亡くなりたる人にはあらぬにこそあめれ。もし死にたりける人を捨てたりけるが、蘇りたるか」 |
「これは、人である。まったく異常なけしからぬ物ではない。近寄って問え。死んでいる人ではないようだ。もしや死んだ人を捨てたのが、生き返ったのだろうか」 |
と言ふ。 |
と言う。 |
「何の、さる人をか、この院の内に捨てはべらむ。たとひ、真に人なりとも、狐、木霊やうの物の、欺きて取りもて来たるにこそはべらめと、不便にもはべりけるかな。穢らひあるべき所にこそはべめれ」 |
「どうして、そのような人を、この院の邸内に捨てましょうか。たとい、ほんとうに人であったとしても、狐や木霊のようなものが、たぶらかして連れて来たのでございましょうと、不都合なことでございますなあ。穢れある所のようでございます」 |
と言ひて、ありつる宿守の男を呼ぶ。山彦の答ふるも、いと恐ろし。 |
と言って、先程の宿守の男を呼ぶ。山彦が答えるのも、まことに恐ろしい。 |