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手習

第一章 浮舟の物語 浮舟、入水未遂、横川僧都らに助けられる   

3. 若い女であることを確認し、救出する   

 

本文

現代語訳

 妖しのさまに、額おし上げて出で来たり。

 変な恰好に、烏帽子を額の上に押し上げて出て来た。

 「ここには、若き女などや住みたまふ。かかることなむある」

 「ここには、若い女などが住んでいるのか。このようなことがある」

 とて見すれば、

 と言って見せると、

 「狐の仕うまつるなり。この木のもとになむ、時々妖しきわざなむしはべる。一昨年の秋も、ここにはべる人の子の、二つばかりにはべしを、取りてまうで来たりしかど、見驚かずはべりき」

 「狐がしたことだ。この木の下に、時々変なことをします。一昨年の秋も、ここに住んでいました人の子で、二歳ほどになったのを、さらって参ったが、驚きもしませんでした」

 「さて、その稚児は死にやしにし」

 「それでは、その子は死んでしまったのか」

 と言へば、

 と訊くと、

 「生きてはべり。狐は、さこそは人を脅かせど、ことにもあらぬ奴」

 「生きております。狐は、そのように人を脅かすが、何ということもないやつです」

 と言ふさま、いと馴れたり。かの夜深き参りものの所に、心を寄せたるなるべし。僧都、

 と言う態度は、とても物慣れたさまである。あの深夜に食事の準備をしている所に、気を取られているのであろう。僧都は、

 「さらば、さやうの物のしたるわざか。なほ、よく見よ」

 「それでは、そのような物がしたことかどうか。やはり、よく見よ」

 とて、このもの懼ぢせぬ法師を寄せたれば、

 と言って、この恐いもの知らずの法師を近づけると、

 「鬼か神か狐か木霊か。かばかりの天の下の験者のおはしますには、え隠れたてまつらじ。名のりたまへ。名のりたまへ」

 「鬼か神か狐か木霊か。これほどの天下第一の験者がいらっしゃるのには、隠れ申すことはできまい。正体を名のりなさい。正体を名のりなさい」

 と、衣を取りて引けば、顔をひき入れていよいよ泣く。

 と、衣を取って引くと、顔を隠してますます泣く。

 「いで、あな、さがなの木霊の鬼や。まさに隠れなむや」

 「さてもまあ、何と、たちの悪い木霊の鬼だ。正体を隠しきれようか」

 と言ひつつ、顔を見むとするに、「昔ありけむ目も鼻もなかりける女鬼にやあらむ」と、むくつけきを、頼もしういかきさまを人に見せむと思ひて、衣を引き脱がせむとすれば、うつ臥して声立つばかり泣く。

 と言いながら、顔を見ようとすると、「昔いたという目も鼻もなかった女鬼であろうか」と、気味悪いが、頼もしく威勢のよいところを人に見せようと思って、衣を脱がせようとすると、うつ臥して声を立てるほどに泣く。

 「何にまれ、かく妖しきこと、なべて、世にあらじ」

 「何にあれ、このような不思議なことは、普通、世間にはない」

 とて、見果てむと思ふに、

 と言って、見極めようと思っていると、

 「雨いたく降りぬべし。かくて置いたらば、死に果てはべりぬべし。垣の下にこそ出ださめ」

 「雨がひどく降って来そうだ。こ侃しておいたら、死んでしまいましょう。築地塀の外に出しましょう」

 と言ふ。僧都、

 と言う。僧都は、

 「まことの人の形なり。その命絶えぬを見る見る捨てむこと、いといみじきことなり。池に泳ぐ魚、山に鳴く鹿をだに、人に捕へられて死なむとするを見て、助けざらむは、いと悲しかるべし。人の命久しかるまじきものなれど、残りの命、一、二日をも惜しまずはあるべからず。鬼にも神にも、領ぜられ、人に逐はれ、人に謀りごたれても、これ横様の死にをすべきものにこそあんめれ、仏のかならず救ひたまふべき際なり。

 「ほんとうに人の姿だ。その命が今にも絶えてしまいそうなのを見ながら放っておくことは、もっての外のことだ。池で泳ぐ魚、山で鳴く鹿でさえ、人に捕えられて死にそうなのを見て、助けないのは、まことに悲しいことだろう。人の命は長くはないものだが、残りの命の、一、二日を惜しまないものはない。鬼にもあれ神にもあれ、取り憑かれたり、人に追出されたり、人に騙されたりしても、これ顔は横死をするにちがいないものだが、仏が必ずお救いになる艦ずの人である。

 なほ、試みに、しばし湯を飲ませなどして、助け試みむ。つひに、死なば、言ふ限りにあらず」

 やはり、試みに、しばらく薬湯を飲ませたりして、助けてみよう。結局、死んでしまったら、しかたのないことだ」

 とのたまひて、この大徳して抱き入れさせたまふを、弟子ども、

 とおっしゃって、この大徳に抱いて中に入れさせなさるのを、弟子どもは、

 「たいだいしきわざかな。いたうわづらひたまふ人の御あたりに、よからぬ物を取り入れて、穢らひかならず出で来なむとす」

 「不都合なことだなあ。ひどく患っていらっしゃる方のお側近くに、よくないものを近づけて、穢れがきっと出て来よう」

 と、もどくもあり。また、

 と、非難する者もいる。また、

 「物の変化にもあれ、目に見す見す、生ける人を、かかる雨にうち失はせむは、いみじきことなれば」

 「変化の物であれ、目前に見ながら、生きている人を、このような雨に打たれ死なせるのは、よくないことなので」

 など、心々に言ふ。下衆などは、いと騒がしく、物をうたて言ひなすものなれば、人騒がしからぬ隠れの方になむ臥せたりける。

 などと、思い思いに言う。下衆などは、たいそう騒がしく、口さがなく言い立てるものなので、人の大勢いない隠れた所に寝かせたのであった。



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