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手習

第三章 浮舟の物語 中将、浮舟に和歌を贈る   

6. 中将、三度山荘を訪問   

 

本文

現代語訳

 文などわざとやらむは、さすがにうひうひしう、ほのかに見しさまは忘れず、もの思ふらむ筋、何ごとと知らねど、あはれなれば、八月十余日のほどに、小鷹狩のついでにおはしたり。例の、尼呼び出でて、

 手紙などをわざわざやるのは、何といっても不慣れな感じで、ちらっと見た様子は忘れず、何を悩んでいるのか知らないが、心を惹かれるので、八月十日過ぎに、小鷹狩のついでにいらっしゃった。いつものように、尼を呼び出して、

 「一目見しより、静心なくてなむ」

 「先日ちらっと見てからというもの、心が落ち着かなくて」

 とのたまへり。いらへたまふべくもあらねば、尼君、

 とおっしゃった。お答えなさるはずもないので、尼君は、

 「待乳の山、となむ見たまふる」

 「待乳の山の、誰か他に思う人がいるように拝します」

 と言ひ出だしたまふ。対面したまへるにも、

 と中から言い出させなさる。お会いなさっても、

 「心苦しきさまにてものしたまふと聞きはべりし人の御上なむ、残りゆかしくはべりつる。何事も心にかなはぬ心地のみしはべれば、山住みもしはべらまほしき心ありながら、許いたまふまじき人びとに思ひ障りてなむ過ぐしはべる。世に心地よげなる人の上は、かく屈じたる人の心からにや、ふさはしからずなむ。もの思ひたまふらむ人に、思ふことを聞こえばや」

 「お気の毒な様子でいらっしゃると伺いました方のお身の上が、もっと詳しく知りたく存じます。何事も思った通りにならない気ばかりがしますので、出家生活をしたい考えはありながら、お許しなさるはずのない方々に妨げられて過ごしております。いかにも屈託なげな今の妻のことは、このように沈みがちな身の上のせいか、似合わないのです。悩んでいらっしゃるらしい方に、思っている気持ちを申し上げたい」

 など、いと心とどめたるさまに語らひたまふ。

 などと、とてもご執心なさってようにお話なさる。

 「心地よげならぬ御願ひは、聞こえ交はしたまはむに、つきなからぬさまになむ見えはべれど、例の人にてはあらじと、いとうたたあるまで世を恨みたまふめれば。残りすくなき齢どもだに、今はと背きはべる時は、いともの心細くおぼえはべりしものを。世をこめたる盛りには、つひにいかがとなむ、見たまへはべる」

 「もの思わしげな方をとのご希望は、いろいろお話し合いなさるに、不似合いではないように見えますが、普通の人のようにはありたくないと、実に嫌に思われるくらい世の中を厭っていらっしゃるようなので。残り少ない寿命のわたしでさえ、今を最後と出家します時には、とても何となく心細く思われましたものを。将来の長い盛りの時では、最後まで出家生活を送れるかどうかと、心配でおります」

 と、親がりて言ふ。入りても、

 と、親ぶって言う。奥に入って行っても、

 「情けなし。なほ、いささかにても聞こえたまへ。かかる御住まひは、すずろなることも、あはれ知るこそ世の常のことなれ」

 「思いやりのないこと。やはり、少しでもお返事申し上げなさい。このようなお暮らしは、ちょっとしたつまらないことでも、人の気持ちを汲むのは世間の常識というものです」

 など、こしらへても言へど、

 などと、なだめすかして言うが、

 「人にもの聞こゆらむ方も知らず、何事もいふかひなくのみこそ」

 「人にものを申し上げるすべも知らず、何事もお話にならないわたしで」

 と、いとつれなくて臥したまへり。

 と、とてもそっけなく臥せっていらっしゃった。

 客人は、

 客人は、

 「いづら。あな、心憂。秋を契れるは、すかしたまふにこそありけれ」

 「どうでしたか。何と、情けない。秋になったらとお約束したのは、おだましになったのですね」

 など、恨みつつ、

 などと、恨みながら、

 「松虫の声を訪ねて来つれども

   また萩原の露に惑ひぬ」

  「松虫の声を尋ねて来ましたが

   再び萩原の露に迷ってしまいました」

 「あな、いとほし。これをだに」

 「まあ、お気の毒な。せめてこのお返事だけでも」

 など責むれば、さやうに世づいたらむこと言ひ出でむもいと心憂く、また、言ひそめては、かやうの折々に責められむも、むつかしうおぼゆれば、いらへをだにしたまはねば、あまりいふかひなく思ひあへり。尼君、早うは今めきたる人にぞありける名残なるべし。

 などと責めると、そのような色恋めいた事に返事するのもたいそう嫌で、また一方、いったん返歌をしては、このような折々に責められるのも、厄介に思われるので、返歌をさえなさらないので、あまりにいいようもなく思い合っていた。尼君は、出家前は当世風の方であった気が残っているのであろう。

 「秋の野の露分け来たる狩衣

   葎茂れる宿にかこつな

 「秋の野原の露を分けて来たため濡れた狩衣は

   葎の茂ったわが宿のせいになさいますな

 となむ、わづらはしがりきこえたまふめる」

 と、わずらわしがり申していらっしゃるようです」

 と言ふを、内にも、なほ「かく心より外に世にありと知られ始むるを、いと苦し」と思す心のうちをば知らで、男君をも飽かず思ひ出でつつ、恋ひわたる人びとなれば、

 と言うのを、簾中でも、やはり「このように思いの外にこの世に生きていると知られ出したのを、とてもつらい」とお思いになる心中を知らないで、男君のことをも尽きせず思い出しては、恋い慕っている人びとなので、

 「かく、はかなきついでにも、うち語らひきこえたまはむに、心より外に、よにうしろめたくは見えたまはぬものを。世の常なる筋には思しかけずとも、情けなからぬほどに、御いらへばかりは聞こえたまへかし」

 「このような、ちょっとした機会にも、お話し合い申し上げなさるのも、お気持ちにそむいて、油断ならないことはなさらない方ですから。世間並の色恋とお思いなさらなくても、人情のわかる程度に、お返事を申し上げなさいませ」

 など、ひき動かしつべく言ふ。

 などと、引き動かさんばかりに言う。



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