第三章 浮舟の物語 中将、浮舟に和歌を贈る
7. 尼君、中将を引き留める
本文 |
現代語訳 |
さすがに、かかる古代の心どもにはありつかず、今めきつつ、腰折れ歌好ましげに、若やぐけしきどもは、いとうしろめたうおぼゆ。 |
そうはいっても、このような古風な気質とは不似合いに、当世風に気取っては、下手な歌を詠みたがって、はしゃいでいる様子は、とても不安に思われる。 |
「限りなく憂き身なりけり、と見果ててし命さへ、あさましう長くて、いかなるさまにさすらふべきならむ。ひたぶるに亡き者と人に見聞き捨てられてもやみなばや」 |
「この上なく嫌な身の上であった、と見極めた命までが、あきれるくらい長くて、どのようなふうにさまよって行くのだろう。ひたすら亡くなった者として誰からもすっかり忘れられて終わりたい」 |
と思ひ臥したまへるに、中将は、おほかたもの思はしきことのあるにや。いといたううち嘆き、忍びやかに笛を吹き鳴らして、 |
と思って臥せっていらっしゃるのに、中将は、およそ何か物思いの種があるのだろうか。とてもひどく嘆き、ひっそりと笛を吹き鳴らして、 |
「鹿の鳴く音に」 |
「鹿の鳴く声に」 |
など独りごつけはひ、まことに心地なくはあるまじ。 |
などと独り言をいう感じは、ほんとうに弁えのない人ではなさそうである。 |
「過ぎにし方の思ひ出でらるるにも、なかなか心尽くしに、今はじめてあはれと思すべき人はた、難げなれば、見えぬ山路にもえ思ひなすまじうなむ」 |
「過ぎ去った昔が思い出されるにつけても、かえって心尽くしに、今初めて慕わしいと思ってくれるはずの人も、またいそうもないので、つらいことのない山奥とは思うことができません」 |
と、恨めしげにて出でなむとするに、尼君、 |
と、恨めしそうにしてお帰りになろうとする時に、尼君が、 |
「など、あたら夜を御覧じさしつる」 |
「どうして、せっかくの素晴らしい夜を御覧になりませぬ」 |
とて、ゐざり出でたまへり。 |
と言って、膝行して出ていらっしゃった。 |
「何か。遠方なる里も、試みはべれば」 |
「いえ。あちらのお気持ちも、分かりましたので」 |
など言ひすさみて、「いたう好きがましからむも、さすがに便なし。いとほのかに見えしさまの、目止まりしばかり、つれづれなる心慰めに思ひ出づるを、あまりもて離れ、奥深なるけはひも所のさまにあはずすさまじ」と思へば、帰りなむとするを、笛の音さへ飽かず、いとどおぼえて、 |
と軽く言って、「あまり好色めいて振る舞うのも、やはり不都合だ。ほんのちらっと見えた姿が、目にとまったほどで、所在ない心の慰めに思い出したが、あまりによそよそしくて、奥ゆかしい感じ過ぎるのも場所柄にも似合わず興醒めな感じがする」と思ので、帰ろうとするのを、笛の音まで物足りなく、ますます思われて、 |
「深き夜の月をあはれと見ぬ人や 山の端近き宿に泊らぬ」 |
「夜更けの月をしみじみと御覧にならない方が 山の端に近いこの宿にお泊まりになりませんか」 |
と、なまかたはなることを、 |
と、どこか整わない歌を、 |
「かくなむ、聞こえたまふ」 |
「このように、申し上げていらっしゃいます」 |
と言ふに、心ときめきして、 |
と言うと、心をときめかして、 |
「山の端に入るまで月を眺め見む 閨の板間もしるしありやと」 |
「山の端に隠れるまで月を眺ましょう その効あってお目にかかれようかと」 |
など言ふに、この大尼君、笛の音をほのかに聞きつけたりければ、さすがにめでて出で来たり。 |
などと言っていると、この大尼君、笛の音をかすかに聞きつけたので、老齢ではいてもやはり心惹かれて出て来た。 |
ここかしこうちしはぶき、あさましきわななき声にて、なかなか昔のことなどもかけて言はず。誰れとも思ひ分かぬなるべし。 |
話のあちこちで咳をし、呆れるほどの震え声で、かえって昔のことなどは口にしない。誰であるかも分からないのであろう。 |
「いで、その琴の琴弾きたまへ。横笛は、月にはいとをかしきものぞかし。いづら、御達。琴とりて参れ」 |
「さあ、その琴の琴をお弾きなさい。横笛は、月にはとても趣深いものです。どこですか、そなたたち。琴を持って参れ」 |
と言ふに、それなめりと、推し量りに聞けど、「いかなる所に、かかる人、いかで籠もりゐたらむ。定めなき世ぞ」、これにつけてあはれなる。盤渉調をいとをかしう吹きて、 |
と言うので、母尼君らしい、と推察して聞くが、「どのような所に、このような老人が、どうして籠もっているのだろう。無常の世だ」と、このことにつけても感慨無量である。盤渉調をたいそう趣深く吹いて、 |
「いづら、さらば」 |
「どうですか。さあ」 |
とのたまふ。 |
とおっしゃる。 |
娘尼君、これもよきほどの好き者にて、 |
娘尼君は、この方も相当な風流人なので、 |
「昔聞きはべりしよりも、こよなくおぼえはべるは、山風をのみ聞き馴れはべりにける耳からにや」とて、「いでや、これもひがことになりてはべらむ」 |
「昔聞きましたときよりも、この上なく素晴らしく思われますのは、山風ばかりを聞き馴れていました耳のせいでしょうか」と言って、「それでは、わたしのはでたらめになっていましょう」 |
と言ひながら弾く。今様は、をさをさなべての人の、今は好まずなりゆくものなれば、なかなか珍しくあはれに聞こゆ。松風もいとよくもてはやす。吹きて合はせたる笛の音に、月もかよひて澄める心地すれば、いよいよめでられて、宵惑ひもせず、起き居たり。 |
と言いながら弾く。当世風では、ほとんど普通の人は、今は好まなくなって行くものなので、かえって珍しくしみじみと聞こえる。松風も実によく調和する。吹き合わせた笛の音に、月も調子を合わせて澄んでいる気がするので、ますます興趣が乗って、眠気も催さず、起きていた。 |