第四章 浮舟の物語 浮舟、尼君留守中に出家す
1. 九月、尼君、再度初瀬に詣でる
本文 |
現代語訳 |
九月になりて、この尼君、初瀬に詣づ。年ごろいと心細き身に、恋しき人の上も思ひやまれざりしを、かくあらぬ人ともおぼえたまはぬ慰めを得たれば、観音の御験うれしとて、返り申しだちて、詣でたまふなりけり。 |
九月になって、この尼君は、初瀬に参詣する。長年とても心細い身の上で、恋しい娘の身の上も諦めきれなかったが、このように他人とも思われない女性を心の慰めに得たので、観音のご霊験が嬉しいと、お礼参りのような具合で、参詣なさるのであった。 |
「いざ、たまへ。人やは知らむとする。同じ仏なれど、さやうの所に行ひたるなむ、験ありてよき例多かる」 |
「さあ、ご一緒に。誰に知られたりするものですか。同じ仏様ですが、あのような所で勤行するのが、霊験あらたかで、良いことが多いのです」 |
と言ひて、そそのかしたつれど、「昔、母君、乳母などの、かやうに言ひ知らせつつ、たびたび詣でさせしを、かひなきにこそあめれ。命さへ心にかなはず、たぐひなきいみじきめを見るは」と、いと心憂きうちにも、「知らぬ人に具して、さる道のありきをしたらむよ」と、そら恐ろしくおぼゆ。 |
と言って促すが、「昔、母君や、乳母などが、このように言って聞かせては、たびたび参詣させたが、何にもその効がなかったようだ。死のうと思ったことも思う通りにならず、又とないひどい目を見るとは」と、ひどく厭わしい心中にも、「知らない人と一緒に、そのような遠出をするとは」と、何となく恐ろしく思う。 |
心ごはきさまには言ひもなさで、 |
強情なふうにはあえて言わないで、 |
「心地のいと悪しうのみはべれば、さやうならむ道のほどにもいかがなど、つつましうなむ」 |
「気分がとてもすぐれませんので、そのような遠出もどんなものかしらなどと、気がひけまして」 |
とのたまふ。「物懼ぢはさもしたまふべき人ぞかし」と思ひて、しひても誘はず。 |
とおっしゃる。「恐がる気持ちは、きっとそうなさるにちがいない方だ」と思って、無理にも誘わない。 |
「はかなくて世に古川の憂き瀬には 尋ねも行かじ二本の杉」 |
「はかないままにこの世につらい思いをして生きるわが身は あの古川に尋ねて行くことはいたしません、二本の杉のある」 |
と手習に混じりたるを、尼君見つけて、 |
と手習いに混じっているのを、尼君が見つけて、 |
「二本は、またも逢ひきこえむと思ひたまふ人あるべし」 |
「二本とは、再びお会い申したいと思っていらっしゃる方がいるのでしょう」 |
と、戯れごとを言ひ当てたるに、胸つぶれて、面赤めたまへる、いと愛敬づきうつくしげなり。 |
と、冗談に言い当てたので、胸がどきりとして、顔を赤くなさったのも、とても魅力的でかわいらしげである。 |
「古川の杉のもとだち知らねども 過ぎにし人によそへてぞ見る」 |
「あなたの昔の人のことは存じませんが わたしはあなたを亡くなった娘と思っております」 |
ことなることなきいらへを口疾く言ふ。忍びて、と言へど、皆人慕ひつつ、ここには人少なにておはせむを心苦しがりて、心ばせある少将の尼、左衛門とてある大人しき人、童ばかりぞ留めたりける。 |
格別すぐれたのでもない返歌をすばやく言う。人目を忍んで、と言うが、皆がお供したがって、こちらが人少なにおなりになることを気の毒がって、気の利いた少将の尼と左衛門という大人の女房と、童女だけを残したのであった。 |