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8. わが過去

本文

現代語訳

語彙

わがかみ 父方の祖母の家伝へて、久しくかの所に住む。その後、縁かけて身おとろへしのぶかたがたしげかりしかど、つひに屋とどむる事を得ず。三十あまりにしてさらにわが心と一つの庵をむすぶ。これをありし住ひにならぶるに、十分が一なり。居屋、ばかりを構へて、はかばかしく屋を作るに及ばず。わづかに築地を築けりといへども、門を立つるたづきなし。竹を柱として、車を宿せり。雪降り風吹くごとに、危ふからずしもあらず。所河原近ければ、水難も深く、白波のおそれもさわがし。すべてあられぬ世を念じ過しつつ、心を悩ませる事、三十余年なり。その間、をりをりのたがひめ、おのづから短き運悟りぬ。すなはち、五十の春を迎へて、家を出で、世を背けり。もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。身に官禄あらず、何につけてか執を留めん。むなしく人原山の雲に臥して、また五かへりの春秋をなん経にける。

私の過去は、父方の祖母の家を継ぐはずで、長い間その家に住んでいた。だが、その後、その家は、ほかの者が後を継ぐことになり、結婚もうまくゆかず、身は落ちぶれ、その祖母の家は思い出多い家だったが、ついに明け渡さなければならなくなった。三十過ぎてから、自分から求めて一つの草庵を結んだ。今まで住んでいた祖母の家にくらべれば、十分の一の小さな家である。住む棟ばかりつくって、あとは、家を建てたというほどには建てなかった。築地だけ築いたが門を建てる術もない。車寄せの柱は竹にした。そういうことなので、雪が降った、風が吹いたというごとに、危ういものだった。河原の近くだったので、賀茂川の氾濫という水の心配があり、また、盗賊の恐れもあった。そういう不安のなかで無事を祈りつつ、三十余りの年月を送った。その間、機会を逃がした折々に、自分には運がないんだということを、自然に知った。そこで、五十になった春に、出家し、遁世した。もともと妻子がいたわけではなし、たよりにされていて世を捨てがたいという係累もない。官職について俸禄を受けていた訳でもないから、何に執着して遁世しかねよう。さっさと出家してしまった。それからまた、何をするということもなく五年、八瀬の大原あたりに隠れていた。

 

 

 

 

 

 

 

ありし【在りし】…【ラ変動詞「あり」の連用形+過去の助動詞「き」の連体形】@もとの。昔の。前世の。生前の。A例の。あの。ここでは@の意。

はかばかし…【形シク】@はきはきしている。てきぱきしている。有能だ。Aしっかりしている。頼りになる。Bはっきりしている。際立っている。C本格的だ。まともできちんとしている。

ついぢ【築地】…【名詞】@泥土を積み上げて築いた塀。古くは泥土だけを固めて造ったが、後には柱を立て、板をしんにして、泥土で塗り固め、屋根を瓦(かわら)でふいた。「ついがき」とも。A「公卿(くぎやう)」「堂上(たうしやう)」の異名。▽上流貴族の邸宅には@をめぐらしていることから。◆「つきひぢ(築泥)」の変化した語。

たづき【方便】…【名詞】@手段。手がかり。方法。Aようす。状態。見当。

さわがし【騒がし】…【形シク】@騒がしい。騒々しい。A忙しい。あわただしい。落ち着かない。B世の中が穏やかでない。騒然としている。ここではBの意。

たがひめ【違ひ目】…【名詞】思いどおりにいかない事態。行き違い。食い違い。

さとる【悟る・覚る】…【他ラ四】@物事の道理をわきまえ知る。理解する。A迷いを離れて仏道の真理を知る。

【他】…【助動ナ変】@〔完了〕…てしまった。…てしまう。…た。A〔確述〕きっと…だろう。間違いなく…はずだ。▽多く、「む」「らむ」「べし」など推量の意を表す語とともに用いられて、その事態が確実に起こることを予想し強調する。B〔並列〕…たり…たり。▽「…ぬ…ぬ」の形で、動作が並行する意を表す。ここでは@の意。



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1 わがかみ…私の過去、以前の私、の意と考えておく。他本はみな、「わが身」。

2 父方の祖母の家…父方の祖母の家は菊家(皇統)といわれているが、系統未詳。

3 伝へて…「伝へる」とは、後を継ぐという了解かできていたことを示すものだと思う。その祖母の家の相続権を、父の死によって親族の誰かに奪われたのであろう。

4 縁かけて…鴨氏一族および妻の実家との間での円満な人間関係の欠如をいう。

5 身おとろへ…鴨氏の一族のつぎあいから脱落した状況をいうのであろう。

6 しのぶかたがたしげかりしかど…長明の『無名抄』に「すはうのないしが、我さへのきのしのぶ草、とよめる家は、冷泉ほりかはの、北とにしとのすみなり」という一条がある。「家を人にはなちてたつとて柱にかきつけ侍りける/住みわびて我さへ軒り忍ぶ草しのぶかたがたしげき宿かな」(金葉・雑上)という、周防内侍の歌境を借りて、自分が祖母の家を明け渡さねばならなくなったときの心境を叙している。

7 屋とどむる…屋を確保する、の意。前田本その他には、「跡をとどむる」などとある。

8 ならぶる…前田本以外の主要異本は、「なすらふる」。しかし「並べる」で意味はわかる。対置して此較する意味。

9 白波…盗賊の異名。

10 あられぬ世…よりよく生存してあろうとしても、ありえられぬほどの世の中、という意。

11 たがひめ…「違ひめ」で、予定が狂うこと。挫折、蹉跌、行きちがい。他の諸本は「たがひめに」。

12 短き運…幸運は、長久を祈る。「短き運」は、不運、非運。

13 よすが…身を寄せるところ。ここでは逆に、相手のほうから自分をよりどころにされている意味に用い、そういうきずなもないといっている。

14 人原山の雲…京都市東北部、八瀬の奥、寂光院の東にあたる。比叡山の横川にも近い。


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