11. 勝地は主なければ
本文 |
現代語訳 |
語彙 |
また麓に一つの柴の庵あり。すなはち、この山守がをる所なり。かしこに小童あり。ときどき来りてあひとぶらふ。もしつれづれなる時はこれを友として遊行す。かれは十歳、これは六十、その齢ことのほかなれど、心をなぐさむることこれ同じ。或は茅花をぬき、岩梨をとり、零余子をもり、芹をつむ。或はすそわの田居にいたりて、落穂を拾ひて、穂組を作る。もしうららかなれば、峰によぢのぼりて、はるかにふるさとの空をのぞみ、木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師を見る。勝地は主なければ、心をなぐさむるにさはりなし。歩み煩ひなく、心遠くいたるときは、これより峰つづき、炭山を越え、笠取を過ぎて、或は石間にまうで、或は石山ををがむ。もしはまた粟津の原を分けつつ、蝉歌の翁が跡をとぶらひ、田上河をわたりて、猿丸大夫が墓をたづぬ。 |
また、この山のふもとに一軒の柴の庵がある。この山の番人が住んでいるのだ。そこに男の子がいる。ときどきやってきて、顔を見せる。退屈なときは、この子をつれて歩く。むこうは十歳、こっちは六十、年はたいへんな違いだが、いっしょに歩くのを楽しみにしていることは、同じである。茅花の白い穂を抜いてみたり、岩梨を取ったり、ぬかごや、芹をつんだりする。あるいは山すその田に行って落穂を拾って穂組を作ることもある。天気のよい日は山の頂上に登って、遠く故郷の空をながめ、木幡山や、伏見の里や、鳥羽や、羽束師を見る。山々は風光がよく、個人の所有地でもないから、心ゆくまで展望が楽しめる。雨やあられの後でなくて山道が歩きよく、気持がはずんだときは、ここから峰伝いに、炭山を越え、笠取山を過ぎて、石間寺に詣ったり、石山寺に詣ったりする。ときには、粟津の原を通って、蝉丸の旧跡をたずね、そのついでに田上川をわたって猿丸大夫の墓に参ることもある。 |
つれづれ【徒然】…【名詞】@手持ちぶさた。退屈であること。所在なさ。Aしんみりしたもの寂しさ。物思いに沈むこと。ここでは@の意。
つばな【茅花】…【名詞】ちがやの花。ちがや。つぼみを食用とした。「ちばな」とも。[季語] 春。 いはなし【岩梨】…【名詞】木の名。こけもも。常緑低木で食用になる赤い実をつける。[季語] 夏。 ぬかご【零余子】…【名詞】やまいもなどの葉のつけ根にできる小いも。[季語] 秋。 せり【芹】…【名詞】草の名。湿地に自生して食用になる。春の七草の一つ。 おちぼ【落穂】…【名詞】@刈り取ったあとに落ち散った稲の穂。[季語]秋。 A落ち葉や落ちた小枝。ここでは@の意。 ほくみ【穂組】…【名詞】刈った稲穂を乾かすため組んで積むこと。 |
かへるさには、折につけつつ桜を狩り、紅葉をもとめ、わらびを折り、木の実を拾ひて、かつは仏にたてまつり、かつは家づとにす。もし夜静かなれば、窓の月に故人をしのび、猿の声に袖をうるほす。くさむらの螢は、遠く槇のかがり火にまがひ、暁の雨はおのづから木の葉吹く嵐に似たり。山鳥のほろと鳴くを聞きても、父か母かとうたがひ、峰の鹿の近く馴れたるにつけても、世に遠ざかるほどを知る。或はまた埋み火をかきおこして、老いの寝覚の友とす。おそろしき山ならねば、梟の声をあはれむにつけても山中の景気折につけて尽くる事なし。いはむや、深く思ひ深く知らむ人のためには、これにしも限るべからず。 |
帰り途は、春なら桜、秋なら紅葉をかざし、季節によっては、蕨を折ったり、木の実を拾ったり、そうして仏前にも供え、土産にもする。静かな夜は、庵の窓に月を仰いで旧知のことを思い出し、猿の鳴き声に涙を流す。草むらの螢の火が、遠くの槇の島のかがり火に見まごうこともあれば、明け方の雨の音が木の葉を散らす風の音のように聞こえるときもある。山鳥が、ほろと一声鳴いても父か母かと思われ、峰の鹿が馴れて寄ってくるのを見るにつけても、どのくらい世間から離れてしまったかがわかる。或いは、埋み火を掻きおこして、長い夜の友として起きている。深い山ではないから、梟が鳴いても、趣があり、山中の風光は、四季折々に、尽きない味がある。私のような者にとってさえ、そうなのだから、もっと深遠なものの見方をする人にとっては、さらにさらに味わいがあることだろう。 |
かつ【且つ】…【副詞】@一方では。同時に一方で。▽二つの事柄が並行して行われていることを表す。「かつ…かつ…」の形、また、単独でも用いられる。Aすぐに。次から次へと。Bちょっと。ほんの少し。わずかに。やっと。 家づと【家苞】…自分の家への土産。 かがり火【篝火】…【名詞】夜間の戸外の照明のために、鉄のかごの中にたく火。▽漁労・警固などのために用いる。
うづみび【埋み火】…【名詞】灰の中にうずめた炭火。いけ火。[季語] 冬。
ふくろう【梟】
けいき【景気】…【名詞】@ありさま。ようす。A景色。景観。B(詠むべき)詩的風景。ここではBの意。 |
1 山守…山の番人。
2 これ…この「これ(是)」は「…だ」という述語動詞にあたる。心をなぐさむることは同じだ、の意。
3 茅花…茅萱(ちがや)。
4 岩梨…こけもも。
5 すそわの田居…山の麓の周囲の田。「筑波嶺の裾廻の田井に秋田刈る妹がり遣らむ黄葉(もみぢ)手折らな」(万葉一七五八)。
6 木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師…日野からは木幡は西南、伏見その他は真西。日野から伏見六km、鳥羽七km・羽束師八km。「勝地は…」は、「勝地本来定主無シ、大都山ハ山ヲ愛スル人ニ属ス」(白氏文集巻十三・和漢朗詠集)による。
7 歩み煩ひ…膝が弱っているわけではない、ここは雨などの後で山道がすべるか、すべらないかをいっているのであろう。
8 心遠くいたるとき…はるかに山のかなたの思われる時。
9 笠取…笠取山は山城・近江の国境にあり、山麓に同名の村落がある。1kmあまり東に岩間寺、さらに4km北に石山寺がある。
10 石山…大津市岩開山にある正法寺。
11 粟津の原…現在の大津市内。木曾義仲の最期の地。瀬田の橋から西北の湖岸。
12 蝉歌の翁…蝉丸のことであろう。
13 田上…瀬田川にそそいでいる大戸川の南に太神山がある。この大戸川の北側に上田、南側に下田上の名があったという(犬養孝『万葉の旅』)。だが、『無名抄』に記す猿丸大夫の墓の所在地「たなかみのしも」がこの「下田上」かどうか不明。
14 猿丸大夫…万葉以後、六歌仙以前の一歌人。今はその実態がわからなくなった。「まうちぎみ」は「前つ君」の転だという。『和名抄』巻五(二十巻本)に「大臣」を「於保伊万宇智岐美」とある。
15 かへるさ…帰途。「かへさ」ともいう。
16 に…原本「ニ」の右に「ト」とある。脱稿後「ト」に直したとみるべきであるが、しばらく「ニ」を採用した。
17 槇…前田本は「まきのしま」。宇治市にある。
18 山鳥のほろと鳴くを聞きても、父か母かとうたがひ…山鳥が「ほろ」と鳴くのを、亡き父母が、来世で鳥になって鳴いている声ではないかと思う(疑心)、というのである。『玉葉集』巻十九に行基菩薩の詠として「山鳥のほろほろとなく声きけば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」とある。