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76. 内裏の局、細殿いみじうをかし 

 体験に取材し、宮中生活の実態を描く。

本文

現代語訳

語彙

 内裏の局、細殿いみじうをかし。上の蔀(しとみ)あげたれば、風いみじう吹き入りて、夏もいみじうすずし。冬は、雪・霰(あられ)などの、風にたぐひて降り入りたるもいとをかし。せばくて、わらはべなどののぼりぬるぞあしけれども、屏風のうちにかくしすゑたれば、こと所の局のやうに、聲たかく笑わらひなどもせで、いとよし。晝(昼)なども、たゆまず心づかひせらる。夜はまいてうちとくべきやうもなきが、いとをかしきなり。

宮中において女房の小部屋は、細殿がたいそうよい。蔀の上半分を上げると、風がたいへん良く吹き込んで、夏でも大変涼しい。冬は、雪やあられなどが、風に乗って吹き込んでくるのもたいへん趣深い。狭いので女の子などが来た場合は多少具合が悪いが、女の子を屏風の内側に隠して座らせてしまえば、他の場所の局のように声高に笑うこともせず、甚だよい。昼なども、絶えず心遣いされている。夜は、まして気を許すことができそうもないのが、たいそう趣き深いものであるよ。

 

 沓(くつ)の音、夜一夜聞ゆるが、とどまりて、ただおよびひとつしてたたくが、その人なりと、ふと聞ゆるこそをかしけれ。いとひさしうたたくに、音もせねば、寝入りたりとや思ふらんとねたくて、すこしうちみじろぐ、衣のけはひ、さななりと思ふらんかし。冬は、火桶にやをら立つる箸の音も、しのびたりと聞ゆるを、いとどたたきはらへば、聲にてもいふに、かげながらすべりよりて聞く時もあり。

 靴の音が、一晩中聞こえるが、ふと止まって、ただ指一本でたたくその音が、あああの方だとすぐ分かる、それが実におもしろい。たいそう長い間叩いたけれども、中では物音もしないのでもう寝入ったと思うだろうかと癪で、すこし身じろぎする、そのかすかな衣ずれで、外の男は、まだ起きているのだなと思うだろうよ。冬は、火鉢にそっと立てる火箸の音も、あたりを憚っていると聞えるものを、男は一層ひどくたたき、声に出してまで呼ぶので、物かげからすり寄って聞く時もある。

よひとよ 【夜一夜】…【名詞】夜通し。一晩じゅう。▽副詞的に用いる。

 

 

ひさし 【久し】…@長い。▽期間や、時間についていう。A時間がかかる。B久しぶりだ。

   

 また、あまたの聲して詩誦し、歌などうたふには、たたかねどまづあけたれば、ここへとしも思はざりける人も立ちとまりぬ。ゐるべきやうもなくて立ちあかすも、なほをかしげなるに、几帳の帷子(かたびら)いとあざやかに、のつまうちかさなりて見えたるに、直衣のうしろにほころびたえず着たる君たち、六位の蔵人の青色など着て、うけばりて遣戸のもとなどに、そばよせてはえ立たで、塀のかたにうしろおして、袖うちあはせて立ちたるこそをかしけれ。

 また、皆で声を出して詩を詠み、和歌など詠っていると、戸を叩きもしないのにまず戸を開けたなら、別段ここへとも思わなかった人まで立ち止まってしまう。入るべき用事もなくて、立ち尽くすのも、なお趣深いが、几帳のたれ布が、たいそう鮮やかで、衣の袖口がうち重なって見えるのが、直衣の「ほころび」がとれぬようきちんと着附をした貴公子達や六位の蔵人が、麹塵(きくじん)の袍を着て、一手に引き受けて引き戸のもとなどに寄りそって立つことはできず、塀に背中を押しつけて、袖を合わせて立っているのはおもしろい。

 

 

 

 

 

かたびら【帷】【帷子】…【名詞】@几帳(きちよう)・帳(とばり)などに用いる垂れ布。夏は生絹(すずし)、冬は練り絹を用いる。A裏を付けない衣服。B夏に着る、麻・木綿などで作った単衣(ひとえ)。C「経帷子(きやうかたびら)」の略。仏葬で、死者に着せる白い麻の着物。◆裏のない一枚だけの布である「片枚(かたひら)」の意。

 

やりど【遣り戸】…【名詞】鴨居(かもい)と敷居(しきい)との溝にはめて、横に引いて開閉する戸。引き戸。[反対語] 妻戸(つまど)。

 また、指貫いと濃う、直衣あざやかにて、色々の衣どもこぼし出でたる人の、簾をおし入れて、なからいりたるやうなるも、外より見るはいとをかしからんを、きよげなる硯引きよせて文書き、もしは、鏡乞ひて見なほしなどしたるは、すべてをかし。

 また、指貫がたいそう濃厚に、直衣も鮮やかに、色さまざまの衣を出衣(いだしぎぬ)にした人が、簾を押し入れて、なかば入り込んでいるようなのも、外から見ると大層おもしろいが、こぎれいな硯を引き寄せて、文章を書き、もしくは女房の鏡を借りて、化粧直しなどするのもすべておもしろい。

さしぬき【指貫】…【名詞】袴(はかま)の一つ。裾(すそ)の回りに紐(ひも)が通してあり、はいてから、その紐を絞って足首でくくる。本来は狩猟用のもので狩衣(かりぎぬ)といっしょに着用したが、平安時代には貴族の平常服また宮中での略式礼装となり、衣冠・直衣(のうし)などでも指貫を用いるようになった。指貫の袴。

   

 三尺の几帳を立てたるに、帽額(もかう)の下ただすこしぞある、外に立てる人と内にゐたる人と物いふが、顔のもとにいとよくあたりたるこそをかしけれ。たけのたかくみじかからん人などや、いかがあらん。なほ世のつねの人はさのみあらん。

 三尺の几帳を立てたが、たれ布の下にほんの少し空間ができる。簾の外に立っている殿上人と内に坐っている女房と話をする、その時の空間が、顔の所に丁度よく当っているのは面白いものだ。例えば、丈が高すぎたり低すぎたりする場合はどうだろうか。だがやはり世間並の丈の人なら皆そうだろう。

もかう【帽額】…【名詞】「御帳(みちやう)」「御簾(みす)」の上部や、上長押(うわなげし)などに横に長く引き回した、一幅(ひとの)の布。窠(か)(=瓜(うり)を輪切りにした形の模様。「木瓜(もくかう)」ともいう)の紋を染めるのを通例とした。◆「もうがく(帽額)」の変化した語。⇒すだれ

 


 

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 1 細殿…細殿は廂の間で形の細いものをいう。そこを仕切って局とした。廊と同様に解するのはどうか?紫式部日記・源氏物語にも見える。

 2 上の蔀蔀の上半分。蔀は格子の裏に板を張り、日光や風雨を避けるようにしたもの。柱と柱との間にはめ、上半分はつり上げる。

 3 吹き入りて…三巻本に「ふき入て」とあり、「吹き入りて」と読むべきか。能因本「吹いれて」。

 4 風にたぐひて…風につれて。「たぐふ」は添う、並ぶの意。

 5 たたきはらへば…「はらへば」は不審。能因本「たゝきまさり」、堺本・前田本「たゝけば」。一応能因本によって解しておく。

 6 かげながら…一説に「かけながら」すなわち懸金をかけたままでの意とする。

 7 ゐる…「ゐる」は能因本「入る」。

8 …女房の衣の裾口か。

9 青色…麹塵(きくじん)の袍。天皇の常用で蔵人は晴の場合に着用することができた。

10 うけばりて…万事心得顔に。一手に引き受けて。

11 三尺の几帳…身辺に置く普通の高さの几帳。手の長さ三尺六寸、帷子は四幅または五幅。


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