87. 職の御曹司におはします頃、西の廂にて
  本文  現代語訳
  職の御曹司におはします頃、西の廂にて、不斷の御讀經あるに、佛などかけ奉り、僧どものゐたるこそ、さらなることなれ。   職の御曹司にいらっしゃるころ、西の廂で、輪番のお読経があったので、仏の絵などを掛けなさって、僧などが控えていらっしゃることはいうまでもない。
  二日ばかりありて、縁のもとに、あやしき者の聲にて、「なほかの御佛供のおろし侍りなん」といへば、「いかでか、まだきには」といふなるを、何のいふにかあらんとて、立ち出でて見るに、なま老いたる女法師の、いみじうすすけたる衣を着て、さるさまにていふなりけり。「かれは、何ごといふぞ」といへば、聲ひきつくろひて、「佛の御弟子にさぶらへば、御佛供のおろしたべんと申すを、この御坊たちの惜しみ給ふ」といふ。はなやぎ、みやびかなり。かかる者は、うちうんじたるこそあはれなれ、うたてもはなやぎたるかなとて、「こと物は食はで、ただ佛の御おろしをのみ食ふか。いとたふときことかな」といふ、けしきを見て、「などか、こと物も食べざらん。それがさぶらはねばこそとり申しつれ」といへば、くだ物、ひろき餅などを、物に入れてとらせたるに、むげになかよくなりて、よろづのこと語る。  二日ばかりして、縁のもとで、下賤な者の声で(尼法師)「まだそのお供え物のおさがりにあづかれませんか」と言うと、「まだこんなに早く、何であるものですか。と答える声がするので何者がああいうのかしらと思って立ち出でてみると、年寄じみた尼法師が、大変うす汚れた衣を着て、猿の様にて言うのであった。「彼は、何と言っているのか」と、言うと、気どった声で、「私は仏の御弟子でございますので、お供え物を食べたいと申しますのにこの御坊さんたちが、お惜みになる」という。 こういう者はしょんぼりしているのがあわれなのだ、それを、ばかにはしゃいでいるなと思って、「他の物は食わず、仏のおさがりのみを食うか。大変尊いことであるよ」という、折を見て、「どうしてほかの物も食べないなんてことがありましょう。それがございませんからこそ、おさがりを頂くのですよ。」といえば、果物、のしもちなどを箱に入れて取らせていると、やたらと仲良くなって、色々とおしゃべりをした。
   
  わかき人々出で来て、「をとこやある」「いづくにか住む」など口々問ふに、をかしき言、そへ言などをすれば、「歌はうたふや。舞などするか」と問ひもはてぬに、「夜は誰とか寢ん。常陸の介と寢ん。寢たる肌よし」これが末、いとおほかり。また、「男山の峰のもみぢ葉、さぞ名は立つや、さぞ名は立つや」と頭をまろばし振る。いみじうにくければ、わらひにくみて、「往ね、往ね」といふ。「いとほし。これに、何とらせん」といふを聞かせ給ひて、「いみじう、かたはらいたきわざは、せさせつるぞ。聞かで、耳をふたぎてぞありつる。その衣ひとつとらせて、とく遣りてよ」と仰せらるれば、「これ、賜はするぞ。衣すすけためり。しろくて着よ」とて、投げとらせたれば、ふし拜みて、かたにうち置きては舞ふものか。まことににくくて、みな入りにし。  若い女房達が出てきて「男はいるの」「どこに住んでいるの」などと口々に質問してくるのに、粋な冗談で答えると、「歌は歌うか。踊りなどするか」などと問いは尽きぬのに、「夜は誰と寝るの。常陸の介?寝る肌はよいわ」という結末がとても多い。「男山の峰のもみじ葉とかいう評判が立っています」と、頭をクルクルと振る。大変気に入らなくて、憎み笑いして、「下がりなさい」と、言う。「いとおしい。これに何を取らせようか」と、言うのをお聞きになって、「何とまあひどい、なぜそんな聞き苦しいことをさせたのですか。聞いていられず耳を塞いでいる。その衣一つやって、早く帰しなさい。」とおっしゃるので「これをあげます。着物が煤けているようだ、これを着てさっぱりおなり。」と言って投げてよこせば、殿上人が頂き物をした時のように、肩において拝舞するとは、呆れたことだ。大変煩わしく、みな入ってしまった。
  のち、ならひたるにやあらん、つねに見えしらがひありく。やがて常陸の介とつけたり。衣もしろめず、おなじすすけにてあれば、いづち遣りてけんなどにくむ。   後、慣れたのであろうか、わざと人目につくように歩きまわる。やがて謡った文句をそのままに、常陸の介と付けた。着物も白いのに着かえず前と同じ煤けたのでいるので、いったいどこへやったのかとにくらしがる。
   
  右近の内侍のまゐりたるに、「かかる者をなん語らひつけておきためる。すかして、つねに来ること」とて、ありしやうなど、小兵衞といふ人にまねばせて聞かせさせ給へば、「かれいかで見侍らん。かならず見せさせ給へ。御得意ななり。さらに、よも語らひとらじ」などわらふ。   右近の内侍様がいらっしゃって、「皆はこんな者を手なずけて大事にしているんですよ。うまいこと言ってはよくやってくること。」と言って、あの時の様子などを小兵衛という女房に真似させてお聞かせになると「私も何とかしてそれを見とうございます。皆さんの御ひいきと見えます。まさか私が横取りなど決して致しません。」などとお笑いになる。
  その後、また、尼なる乞食のいとあてやかなる、出で来たるを、また呼び出でてものなどいふに、これはいとはづかしげに思ひて、あはれなれば、例の、衣ひとつ賜はせたるを、ふし拜むは、されどよし、さてうち泣きよろこびて往ぬるを、常陸の介は、来あひて見てけり。その後ひさしう見えねど、誰かは思ひ出でん。   その後、また尼である乞食がたいそう高貴な様子で出てきたのを、呼び出して話などするに、これはまた恥ずかし気に思ってしみじみとするのだが、例の通り中宮から衣一枚下されたところ、ふし拝むのはまだよい、はては嬉し泣きに泣いて出ていったのを常陸の介は偶然出てきてそれを見てしまった。その後久しく見ませんが、誰がそんな者を思い出すものか。
   
  さて、師走の十よ日の程に、雪いみじう降りたるを、女官どもなどして、縁にいとおほく置くを、「おなじくは、庭にまことの山を作らせ侍らん」とて、侍召して、「仰せごとにて」といへば、あつまりて作る。主殿寮の官人、御きよめにまゐりたるなども、みな寄りて、いとたかう作りなす。宮司などもまゐりあつまりて、言くはへ興ず。三四人まゐりつる主殿寮の者ども、二十人ばかりになりにけり。里なる侍召しに遣しなどす。「けふ、この山作る人には、日三日賜ふべし。また、まゐらざらん者は、またおなじ數とどめん」などいへば、聞きつけたるはまどひまゐるもあり。里とほきは、え告げやらず。   さて、12月10日余り(長徳4年(998)12月10日)、雪がたいそう降ったので、下級の女官達が力を協せて建物の縁にとても多く(雪を)置くが、「どうせ作るなら、庭に本物の山を御作りしましょう。」と言って、女房を召して「宮さまのお言葉です。」と言うと、集まって作る。主殿寮の役人でお庭の清掃に参上した者なども参加してたいそう高くつくりなす。宮司なども集って、助言や批評などして興ずる。3~4人いらっしゃいます主殿寮の者どもは、20人ばかりになった。非番で自宅に退出していた内侍にも使いを出す。「今日山を作る人には3日の休みを与えよう。参らないものは3日とどめよう」などと言うので、聞きつけてあわてて参上するものもあり、私邸が遠い者にはどうして告げることができようか。
  作りはてつれば、宮司召して、衣二ゆひとらせて、縁に投げいだしたるを、ひとつとりにとりて、拜みつつ、腰にさしてみなまかでぬ。うへのきぬなど着たるは、さて狩衣にてぞある。   雪の山をすっかり作り上げたので、宮司(中宮職の職員)を呼んで、布二くくり取らせて縁に投げ出したものを、一つ一つ取って、拝みながら腰に差してみな退出してしまった。いつも束帯の袍を着ている人々は、先刻狩衣に着かえたそのままの服装で控えている
   
  「これ、いつまでありなん」と人々にのたまはするに、「十日はありなん」「十よ日はありなん」など、ただこの頃のほどを、あるかぎり申すに、「いかに」と問はせ給へば、「正月の十よ日までは侍りなん」と申すを、御前にも、えさはあらじとおぼしめしたり。女房はすべて、年のうち、つごもりまでもえあらじとのみ申すに、あまりとほくも申しけるかな、げにえしもやあらざらむ、一日などぞいふべかりけると、下には思へど、さはれ、さまでなくとも、いひそめてんことはとて、かたうあらがひつ。   中宮様は、女房達に、「この雪山は、いつまであるかしら」と、聞くと、「十日はあるだろう」「十日余りはあるだろう」など、ただこれ位の期間を全部の女房が申しあげると、中宮様は私にお聞きになる。(私は)「正月の十日すぎまではございましょう」と、申しあげるにも、中宮様にも、まさかそれ程はあり得まいとお思いになったようだ。女房達はすべてとても年内―大晦日までも、もつまいというのに、あまりに遠く言い過ぎたかな、なるほど皆のいう通り、それまではとてももつまい、正月一日位にいうべきだったと内心では思うけれど、ままよ、そうまではなくても、一旦言い出したことは最後までと思って、頑固に抵抗した。
  二十日の程に雨降れど、消ゆべきやうもなし。すこしたけぞ劣りもて行く。「白山の観音、これ消えさせ給ふな」といのるも、ものくるほし。   20日頃に雨が降ったが、消えゆく様子はない。少し高さが低くなっていく。「白山の観音様よ、これを消えさせなさるな」などと、祈るのも常軌を逸している。
   
  さて、その山作りたる日、御使に式部丞忠隆まゐりたれば、褥さしいだしてものなどいふに、「けふ雪の山作らせ給はぬところなんなき。御前のつぼにも作らせ給へり。春宮にも弘徽殿にも作られたりつ。京極殿にも作らせ給へりけり」などいへば、  さて、その山を作った日に、主上の御使として式部省の三等官、忠隆殿がいらっしゃると、女房達は簀子に敷物をさし出して物語をすると、「今日雪の山を作らない所はない清涼殿の西の中庭にもお作りになる。東宮御所にも清涼殿の北方にもお作りになっている。左大臣道長の邸にも」などというので、
   ここにのみめづらしとみる雪の山所々にふりにけるかな  雪の山は此処だけに作ったと思いましたら、さては方々で作られ、一向珍しくもなかったのですね。(「ふり」に古り・降りを懸ける。
  と、かたはらなる人していはすれば、度々かたぶきて、「返しはつかうまつりけがさじ。あされたり。御簾の前にて、人にを語り侍らん」とて立ちにき。歌いみじうこのむと聞くものを、あやし。御前にきこしめして、「いみじうよくとぞ思ひつらん」とぞのたまはする。   私が傍の女房の口から伝えさせると、忠隆は何度も首をかしげて不審がり、「めったな返歌をしてお作をけがすのは慎しみましょう。風流なものだ。御簾の前で皆さんに披露いたしましょう。」と言って立っている。忠隆は大層歌が好きだそうなのに妙な事だ。(中宮の)御前に聞こえさせて「特別上手にと思ったのでしょうと(中宮様は)おっしゃる。
   
  つごもりがたに、すこしちひさくなるやうなれど、なほいとたかくてあるに、晝つかた、縁に人々出でゐなどしたるに、常陸の介出で来たり。「など、いとひさしう見えざりつる」と問へば、「なにかは。心憂きことの侍りしかば」といふ。「何事ぞ」と問ふに、「なほかく思ひ侍りしなり」とて、ながやかによみ出づ。   月末頃になって、少し山は小さくなるようであるが、まだ大変高くある。昼頃に、縁に人々出入りするが、そこに常陸の介殿がいらっしゃった。「どうして、とても久しく見かけませんでしたが」と訊くと、「いやなに。不愉快なことがありましたので。」と、言う。「(不愉快なこととは)何ですか」と、問いかけると、「やはりこう思いましたのです。」と言って長々と語尾を引いて(歌を)詠じ出す。
  うらやまし足もひかれずわたつ海のいかなる人にもの賜ふらん   ああ羨しい、あの尼がどんな人だからといって、足も引かれぬくらい沢山の下され物をしたのでしょう。(後に来た尼はびっこなので「足もひかれず」とし、「わたつ海の」は海士(あま)の枕詞から転じて尼の意を表した。)
  といふを、にくみわらひて、人の目も見入れねば、雪の山にのぼり、かかづらひありきて、往ぬるのちに、右近の内侍に、かくなどいひやりたれば、「などか、人添へては賜はせざりし。かれがはしたなくて、雪の山までのぼりつたひけんこそ、いとかなしけれ」とあるを、またわらふ。  と、言うのを、ほくそ笑んで、人々が目も向けないので、雪の山に上り、あちこち踏み歩いて、山を下ったのちに、右近の内侍に、こうこういうことがありましたと言い伝えると、「どうして人をつけてこちらへさし向け下さいませんでしたか。あれがきまり悪い恰好で雪の山まで登り歩いていったとはまあ実にかわいそうな。」と、答えがあるのをまた笑う。
   
  さて、雪の山、つれなくて年もかへりぬ。一日の日の夜、雪のいとおほく降りたるを、「うれしうもまた積みつるかな」と見るに、「これはあいなし。はじめの際をおきて、いまのはかき棄てよ」と仰せらる。  さて、雪の山は平然として翌年(長徳5年)となった。1日の夜、雪がたいそう多く降るので、「うれしくもまた積み上げるか」と(中宮様は)見て、「これはいけない。はじめの分だけそのままにして、いまの分は払い捨てなさい。」と仰せになる。
  局へいととく下るれば、侍の長なる者、柚の葉のごとくなる宿直衣の袖の上に、あをき紙の松につけたるを置きて、わななき出でたり。「それは、いづこのぞ」と問へば、「斎院より」といふに、ふとめでたうおぼえて、とりてまゐりぬ。  宿直して翌朝大層早く局へ退出すると、斎院司の侍の頭である者がゆずの葉のように濃緑の宿直着の上に、松につけた青い紙を置いて、寒さにふるえながら出てきた。「それはどこからのお手紙ですか。」と訊くと、「賀茂の斎王より」と言うのがふとめでたく思えてうけ取ってまいった。
   
  まだおほとのごもりたれば、まづ御帳にあたりたる御格子を、碁盤などかきよせて、ひとり念じあぐる、いとおもし。片つかたなればきしめくに、おどろかせ給ひて、「などさはすることぞ」とのたまはすれば、「斎院より御文のさぶらはんには、いかでかいそぎあげ侍らざらん」と申すに、「げに、いと疾かりけり」とて、起きさせ給へり。御文あけさせ給へれば、五寸ばかりなる卯槌ふたつを、卯杖のさまに頭などをつつみて、山橘・口かげ・山菅など、うつくしげにかざりて、御文はなし。ただなるやうあらんやは、とて御覧ずれば、卯杖の頭つつみたるちひさき紙に。  中宮様はまだ御就寝中なので、まず御帳台に面した御格子を、碁盤などひき寄せて台にし、ひとりで我慢してかき上げるが、大変重い。片方だけを持ち上げるので、きしきし鳴るので、中宮様は目をお覚ましになって「どうしてそんなことをするのですか」とおっしゃるので、「斎院からお手紙がございましたからは、どうしてみ格子を急いで上げずにいられましょう。」と、申しあげると、「なるほど早いお手紙でしたね。」と言ってお起きになった。お手紙をお明けになると、5寸ばかりの卯槌ふたつを卯杖の間に頭などを包んで、山橘・口かげ・山菅などをかわいらし気に飾り付けて、手紙はない。何もないわけはなかろうと、よくご覧になると、卯杖の頭を包んでいる小さい紙に
  山とよむ斧の響を尋ぬればいはひの杖の齒にぞありける   山も鳴り渡る斧の響は何かと調べると、それはほかならぬ卯杖の音であった。(「いはひの杖」は卯杖の別名。
  御返し書かせ給ふほども、いとめでたし。斎院には、これよりきこえさせ給ふも、御返しも、なほ心ことに、書きけがしおほう、用意見えたり。御使に、しろき織物の單、蘇枋なるは梅なめり。雪の降りしきたるに、かづきてまゐるもをかしう見ゆ。そのたびの御返しをその時の、知らずなりにしこそくちをしけれ。   お返事をおかきになる様子も、大変素晴らしい。やはり斎院には、此方からさし上げられる場合もお返事の場合も、格別念入りに、何度も書き直しをされ、心づかいの程が知られる。お使いには、白い織物の単衣、蘇枋色のは梅がさね(表裏蘇枋)らしい。雪が降りしきる時肩にかけて帰参するのもきれいに見える。そのときの斎院に宛てられた中宮の御返歌を知らずにすんでしまったとは残念なことだ。
   
  さて、雪の山、まことの越のにやあらんと見えて、消えげもなし。くろうなりて、見るかひなきさまはしたれども、げに勝ちぬる心地して、いかで十五日待ちつけさせんと念ずる。されど、「七日をだにえすぐさじ」と、なほいへば、いかでこれ見はてんと、みな人思ふほどに、にはかに内裏へ、三日に入らせ給ふべし。いみじうくちをし、この山のはてを知らでやみなんことと、まめやかに思ふ。こと人も、「げにゆかしかりつるものを。」などいふを、御前にも仰せらるるに、おなじくはいひあてて御覽ぜさせばやと思ひつるに、かひなければ、御物の具どもはこび、いみじうさわがしきにあはせて、こもりといふ者の、築土のほどに廂さしてゐたるを、縁のもとちかく呼びよせて「この雪の山いみじうまぼりて、わらはべなどに踏みちらさせず、こぼたせで、よくまもりて、十五日までさぶらへ。その日まであらば、めでたき祿賜はせんとす。私にも、いみじきよろこびいはんとす」など語らひて、つねに臺盤所の人、下衆などにくるるを、くだ物やなにやと、いとおほくとらせたれば、うち知みて、「いとやすきこと。たしかにまもり侍らん。わらはべぞのぼりさぶらはん」といへば、「これを制して、聞かざらん者をば申せ」などいひ聞かせて、入らせ給ひぬれば、七日までさぶらひて出でぬ。  さて、雪の山だが、ほんものの越路の山の雪かと見えて消えそうにもない。黒くなって見る甲斐のない様子ではあるけれども、自分の予想通り勝った気がして、何とかして15日まで持たせたいと祈念する。そうではあるけれども、(女房達は)「7日だって越せないでしょう」と、なおもいうので、どうかして最後まで見届けたい、とみんなが思っていたが、中宮は正月3日に参内されることになった。実に残念、この山の最後を見届けずに終るなんてと、心底から思う。他の人も「ほんとうに見たかったのに」などいい、中宮もそう仰せられるにつけ、同じことなら言い当てて御覧に入れたいと思ったのに、今更甲斐もないので、お道具類を運び出すのでひどく騒がしいのに紛れて 木守という者が、築土のあたりに庇をさしかけて住んでいたのを、縁の近くにまで呼び寄せて、「この雪の山をしっかり守って、子供たちに踏み散らせず、こわさないで15日まで残しておくれ。その日まで雪の山があれば、立派なご褒美をくださいましょう。私的にも、素晴らしいよろこびを言ってあげましょう」。などと語らって、常に臺盤所の人、下男などに与える物、すなわち、果物やなにやと、大変たくさん取らせると、心得て、「なんともたやすきこと。確かにお守りいたしましょう。子供達がのぼりましょうな。」と、言うので、「それを制すること、聞かないものがあったら申し出なさい」などと言い聞かせて、中宮が宮中に入られたので七日まで伺候して、その後わたしは退出した。
   
  その程も、これがうしろめたければ、おほやけ人、すまし・長女などして、たえずいましめにやる。七日の節供のおろしなどをさへやれば、拜みつることなど、わらひあへり。   宮中に伺候している間も、雪の山が気がかりなので、宮仕の女官、すましや長女などを頼んで、絶えず注意しにゆかせる。正月七日にめしあがる供御のおさがりさえやれば、かえって拝まれることなど、笑いあう。
  里にても、まづ明くるすなはち、これを大事にて見せにやる。十日の程に、「五日待つばかりはあり」といへば、うれしくおぼゆ。また、晝も夜もやるに、十四日夜さり、雨いみじう降れば、これにぞ消えぬらんといみじう、いま一日二日も待ちつけでと、夜も起きゐていひなげけば、聞く人、ものくるほしとわらふ。人の出でていくに、やがて起きゐて、下衆起さする、さらに起きねば、いみじうにくみ腹立ちて、起き出でたるやりて見すれば、「わらふだの程なん侍る。こもり、いとかしこうまもりて、わらはべも寄せ侍らず。「明日・明後日までもさぶらひぬべし。祿賜はらん」と申す」といへば、いみじううれしくて、いつしか明日にならば、歌よみて、ものに入れてまゐらせんと思ふも、いと心もとなくわびし。   私邸においても、夜が明けるやいなや、これを重大事として、人を見せにやる。10日頃に、「あと5日ぐらいは大丈夫」と言えば、うれしく思われる。また、昼も夜も人をやるが、14日夜に、雨がよく降れば、これで消えてしまうと残念に、あと1日2日のところを待ちきれずに、夜も起きて言いなげけば、これを聞く人は、正気を失っていると笑う。誰かが起き出てゆくので、自分もそのまま起きていて召使いを起こさせるが、さらに起きないので、たいそう憎み、腹が立って、起きてきた者をやって見させると、「円座の様子こそある。木守は、大層しっかりと番をして子供も寄せ付けない。「明日、明後日もきっとあるにちがいございません。ご褒美をいただきましょう」と、申しあげる」と、言えば、とてもうれしくて、早く明日になるとよい、そうしたら和歌を詠んで、残った雪をいれ物に盛って、中宮にさし上げよう。と、思うのも、とても待ち遠しくて、やりきれぬ思いだ。
   
 くらきに起きて、折櫃など具せさせて、「これに、そのしろからん所入れて持て來。きたなげならん所、かき棄てて」などいひやりたれば、いととく持たせつる物をひきさげて、「はやくうせ侍りにけり」といふに、いとあさましく、をかしうよみ出でて、人にも語り傳へさせんとうめき誦じつる歌も、あさましうかひなくなりぬ。「いかにしてさるならん。昨日までさばかりあらんものの、夜の程に消えぬらんこと」といひくんずれば、「こもりが申しつるは、「昨日いとくらうなるまで侍りき。祿賜はらんと思ひつるものを」とて、手をうちてさわぎ侍りつる」などいひさわぐ。   暗いうちに起きて、折櫃(と言う食器)をもたせて、「これに、その白いところを入れて持ってきなさい。汚いところはかき捨てて」などと言ってつかわしたところ、大変早く持たせたものをひきさげて、「とうに消え失せてしまいました。」よ言うので、全く呆然として興味のある歌を詠み出して、世間の語りぐさともさせたいと、苦吟した歌も、何と全くかいがなくなってしまった。「でもどうしてそんなことがあるのでしょう。昨日まであれ程あったというのに、たった一晩の間に消えてしまったなんて!」と、愚痴をいうと(女房達は)「木守が申しあげるには、「昨日たいそう暗くなるまではあった。ご褒美がもらえると思っていたものを」と言って手をたたいて騒いでいた」など言い騒ぐ。 
   
  内裏より仰せごとあり。さて、「雪は今日までありや」と仰せごとあれば、「いとねたうくちをしければ、『年のうち、一日までだにあらじ』と、人々の啓し給ひしに、昨日の夕ぐれまで侍りしは、いとかしこしとなん思う給ふる。今日までは、あまりことになん。夜の程に、人のにくみてとり棄てて侍るにやとなんおしはかり侍る、と啓せさせ給へ」など聞えさせつ。   中宮様からお言葉があった。さて、「雪は今日まであるか」と、中宮様のお言葉があったので、(私は)「大層しゃくで残念なので、『年内か、1日まではないだろう』と皆さんは申し上げられましたのに昨日の夕ぐれまでありましたことは、我ながら実にたいしたことだと存じます。今日までは余分のことでございます。夜のうちに、誰かが憎んで取り捨ててしまったものと推し量ります、と中宮に申しあげて下さいませ」と使にお返事申しあげさせた。 
   
  さて、廿日まゐりたるにも、まづこのことを、御前にてもいふ。「身は投げつ」とて、蓋のかぎり持て来たりけん法師のやうに、すなはち持て来たりしがあさましかりしこと、物の蓋に小山作りて、白き紙に歌いみじく書きて、まゐらせんとせしことなど啓すれば、いみじくわらはせ給ふ。御前なる人々もわらふに、「かう心に入れて思ひたることをたがへたれば、罪得らん。まことに、四日の夜、侍どもをやりてとり棄てしぞ。返りごとにいひあてたりしこそ、いとをかしかりしか。その女出で来て、いみじう手をすりていひけれども、『仰せごとにて。かの里より来たらん人に、かく聞かすな。さらば、かうちこぼたん』などいひて、左近の司の南の築土などに、みな棄ててけり。『いと堅くて、おほくなんありつる』などぞいふなりしかば、げに廿日も待ちつけてまし。今年の初雪も降り添ひなましなどいふ。上もきこしめして、『いと思ひやりふかくあらがひたる』など、殿上人どもなどに仰せられけり。さても、その歌語れ。いまかくいひあらはしつれば、おなじごと勝ちたるななり」など、御前にも仰せられ、人々ものたまへど、「なでふにか、さばかり憂きことを聞きながら、啓し侍らん」など、まことにまめやかにうんじ、心憂がれば、上もわたらせ給ひて、「まことに、年頃は、おぼす人なめりと見しを、これにぞあやしと見し」など仰せらるるに、いとど憂く、つらく、うちも泣きぬべき心地ぞする。「いで、あはれ、いみじく憂き世ぞかし。のちに降り積みて侍りし雪を、うれしく思ひ侍りしに、「それはあいなし、かき棄てよ」と仰せごと侍りしか」と申せば、「勝たせじとおぼしけるななり」と、上もわらはせ給ふ。   さて、20日御前に参上した時も、まずこのことを中宮様に言う。「身は投げました」といって蓋だけを持って来た法師のように、出かけるやいなやいれ物をぶらさげて帰って来た時のなさけなさ、物の蓋に小山を作って、(雪にちなんで)白い紙に歌をさんざんにかいて献上しようとしたことなどを言上すると、中宮様はたいそうお笑いになる。御前にいる女房達も笑って、「そんなに執心して思いつめたことを、くい違わせたのだから仏罰をうけるかもしれない。あなたの想像通り、14日の夜に、侍どもをやって取り捨てたのです。あなたがお返事で言い当てたことこそ面白い。その女が出てきて、大層手を擦って言うけれども、『上の命令にて。この邸(清少納言の自宅)より来た人にこれを聞かすな。もしいいつけたら、小屋をぶちこわすぞ』などと言って、佐近の司の南の築土などにみな捨ててしまった。『大層硬くて、多くある』などと言っておりましたので、あなたの推量通り、廿日までも残ったかもしれません。もしかしたら今年の初雪も、その上に降りつもったかもしれない。主上もお聞きになって、『実に遠い先まで考えて争ったものだな』などと殿上人どもなどにもおっしゃられた。こうして真相を発表した以上は、あなたが勝ったも同然でしょう。」などと中宮も仰せられるし、女房達も言われるが「まあそれ程辛いことを伺いながら、何として歌など申しあげましょう。」など、ほんとうに真そこからしょげて辛がると、主上もそこにおいでになって今までは真実宮が大事にしておられる人だなと思ったのに、今度ばかりは妙だと思ったよ。」などとおっしゃられるに、大変憂いて、つらく今にも泣き出しそうな気持がする。「 それはいけない。何とまあ、実にわびしいことでございます。後に降り積もる雪を、うれしく思っていたのに『それはつまらない。かき捨てよ』とのお言葉がございましたっけ」と申しあげると、「勝たせまいと思われたのだろうな」と、主上もお笑いになる。