第四章 夕顔の物語(2) 仲秋の物語
7. 忌み明ける
本文 |
現代語訳 |
九月二十日のほどにぞ、おこたり果てたまひて、いといたく面痩せたまへれど、なかなか、いみじくなまめかしくて、ながめがちに、ねをのみ泣きたまふ。見たてまつりとがむる人もありて、「御物の怪なめり」など言ふもあり。 |
九月二十日のころに、病状がすっかりご回復なさって、とてもひどく面やつれしていらっしゃるが、かえって、たいそう優美で、物思いに沈みがちに、声を立てて泣いてばかりいらっしゃる。拝見して怪しむ女房もいて、「お物の怪がお憑きのようだわ」などと言う者もいる。 |
右近を召し出でて、のどやかなる夕暮に、物語などしたまひて、 |
右近を呼び出して、気分もゆったりとした夕暮に、お話などなさって、 |
「なほ、いとなむあやしき。などてその人と知られじとは、隠いたまへりしぞ。まことに海人の子なりとも、さばかりに思ふを知らで、隔てたまひしかばなむ、つらかりし」とのたまへば、 |
「やはり、とても不思議だ。どうして誰とも知られまいと、お隠しになっていたのか。本当に賤しい身分であったとしても、あれほど愛しているのを知らず、隠していらっしゃったので、辛かった」とおっしゃると、 |
「などてか、深く隠しきこえたまふことははべらむ。いつのほどにてかは、何ならぬ御名のりを聞こえたまはむ。初めより、あやしうおぼえぬさまなりし御ことなれば、『現ともおぼえずなむある』とのたまひて、『御名隠しも、さばかりにこそは』と聞こえたまひながら、『なほざりにこそ紛らはしたまふらめ』となむ、憂きことに思したりし」と聞こゆれば、 |
「どうして、深くお隠し申し上げなさる必要がございましょう。いつの折にか、たいした名でもないお名前を申し上げなさることができましょう。初めから、不思議な思いもかけなかったご関係なので、『現実の事とは思えない』とおっしゃって、『お名前を隠していらしたのも、あなた様でいらっしゃるからでしょう』と存じ上げておられながら、『いい加減な遊び事として、お名前を隠していらっしゃるのだろう』と辛いことに、お思いになっていました」と申し上げるので、 |
「あいなかりける心比べどもかな。我は、しか隔つる心もなかりき。ただ、かやうに人に許されぬ振る舞ひをなむ、まだ慣らはぬことなる。内裏に諌めのたまはするをはじめ、つつむこと多かる身にて、はかなく人にたはぶれごとを言ふも、所狭う、取りなしうるさき身のありさまになむあるを、はかなかりし夕べより、あやしう心にかかりて、あながちに見たてまつりしも、かかるべき契りこそはものしたまひけめと思ふも、あはれになむ。またうち返し、つらうおぼゆる。かう長かるまじきにては、など、さしも心に染みて、あはれとおぼえたまひけむ。なほ詳しく語れ。今は、何ごとを隠すべきぞ。七日七日に仏描かせても、誰が為とか、心のうちにも思はむ」とのたまへば、 |
「つまらない意地の張り合いであったな。自分は、そのように隠しておく気はなかった。ただ、このように人から許されない忍び歩きを、まだ経験ないことなのだ。主上が御注意あそばすことを始め、憚ることの多い身分で、ちょっと人に冗談を言っても、窮屈で、取り沙汰が大げさな身の上の有様なので、ふとした夕方の事から、妙に心に掛かって、無理算段してお通い申したのも、このような運命がおありだったのだろうと思うにつけても、お気の毒で。また反対に、恨めしく思われてならない。こう長くはない宿縁であったれば、どうして、あれほど心底から愛しく思われなさったのだろう。もう少し詳しく話せ。今はもう、何を隠す必要があろう。七日毎に仏画を描かせても、誰のためと、心中にも祈ろうか」とおっしゃると、 |
「何か、隔てきこえさせはべらむ。自ら、忍び過ぐしたまひしことを、亡き御うしろに、口さがなくやは、と思うたまふばかりになむ。 |
「どうして、お隠し申し上げましょう。ご自身が、お隠し続けていらしたことを、お亡くなりになった後に、口軽く言い洩らしてはいかがなものか、と存じおりますばかりです。 |
親たちは、はや亡せたまひにき。三位中将となむ聞こえし。いとらうたきものに思ひきこえたまへりしかど、我が身のほどの心もとなさを思すめりしに、命さへ堪へたまはずなりにしのち、はかなきもののたよりにて、頭中将なむ、まだ少将にものしたまひし時、見初めたてまつらせたまひて、三年ばかりは、志あるさまに通ひたまひしを、去年の秋ごろ、かの右の大殿より、いと恐ろしきことの聞こえ参で来しに、物怖ぢをわりなくしたまひし御心に、せむかたなく思し怖ぢて、西の京に、御乳母住みはべる所になむ、はひ隠れたまへりし。それもいと見苦しきに、住みわびたまひて、山里に移ろひなむと思したりしを、今年よりは塞がりける方にはべりければ、違ふとて、あやしき所にものしたまひしを、見あらはされたてまつりぬることと、思し嘆くめりし。世の人に似ず、ものづつみをしたまひて人に物思ふ気色を見えむを、恥づかしきものにしたまひて、つれなくのみもてなして、御覧ぜられたてまつりたまふめりしか」 |
ご両親は、早くお亡くなりになりました。三位中将と申しました。とてもかわいい娘とお思い申し上げられていましたが、ご自分の出世が思うにまかせぬのをお嘆きのようでしたが、お命までままならず亡くなってしまわれた後、ふとした縁で、頭中将殿が、まだ少将でいらした時に、お通い申し上げあそばすようになって、三年ほどの間は、ご誠意をもってお通いになりましたが、去年の秋ごろ、あの右大臣家から、とても恐ろしい事を言って寄こしたので、ものをむやみに怖がるご性質ゆえに、どうしてよいか分からなくお怖がりになって、西の京に、御乳母が住んでおります所に、こっそりとお隠れなさいました。そこもとてもむさ苦しい所ゆえ、お住まいになりにくくて、山里に移ってしまおうと、お思いになっていたところ、今年からは方塞がりの方角でございましたので、方違えしようと思って、賤しい家においでになっていたところを、お見つけ申されてしまった事と、お嘆きのようでした。世間の人と違って、引っ込み思案をなさって、他人から物思いしている様子を見られるのを、恥ずかしいこととお思いなさって、さりげないふうを装って、お目にかかっていらっしゃるようでございました」 |
と、語り出づるに、「さればよ」と、思しあはせて、いよいよあはれまさりぬ。 |
と、話し出すと、「そうであったのか」と、お思い合わせになって、ますます不憫さが増した。 |
「幼き人惑はしたりと、中将の愁へしは、さる人や」と問ひたまふ。 |
「幼い子を行く方知れずにしたと、頭中将が残念がっていたのは、そのような子でもいたのか」とお尋ねになる。 |
「しか。一昨年の春ぞ、ものしたまへりし。女にて、いとらうたげになむ」と語る。 |
「さようでございます。一昨年の春に、お生まれになりました。女の子で、とてもかわいらしくて」と話す。 |
「さて、いづこにぞ。人にさとは知らせで、我に得させよ。あとはかなく、いみじと思ふ御形見に、いとうれしかるべくなむ」とのたまふ。「かの中将にも伝ふべけれど、言ふかひなきかこと負ひなむ。とざまかうざまにつけて、育まむに咎あるまじきを。そのあらむ乳母などにも、ことざまに言ひなして、ものせよかし」など語らひたまふ。 |
「それで、どこに。誰にもそうとは知らせないで、わたしに下さい。あっけなくて、悲しいと思っている人のお形見として、どんなにか嬉しいことだろう」とおっしゃる。「あの中将にも伝えるべきだが、言っても始まらない恨み言を言われるだろう。あれこれにつけて、お育てするに不都合はあるまいからね。その一緒にいる乳母などにも違ったふうに言い繕って、連れて来てくれ」などと相談をもちかけなさる。 |
「さらば、いとうれしくなむはべるべき。かの西の京にて生ひ出でたまはむは、心苦しくなむ。はかばかしく扱ふ人なしとて、かしこに」など聞こゆ。 |
「それならば、とても嬉しいことでございましょう。あの西の京でご成育なさるのは、不憫でございまして。これといった後見人もいないというので、あちらで」などと申し上げる。 |
夕暮の静かなるに、空の気色いとあはれに、御前の前栽枯れ枯れに、虫の音も鳴きかれて、紅葉のやうやう色づくほど、絵に描きたるやうにおもしろきを見わたして、心よりほかにをかしき交じらひかなと、かの夕顔の宿りを思ひ出づるも恥づかし。竹の中に家鳩といふ鳥の、ふつつかに鳴くを聞きたまひて、かのありし院にこの鳥の鳴きしを、いと恐ろしと思ひたりしさまの、面影にらうたく思し出でらるれば、 |
夕暮の静かなころに、空の様子はとてもしみじみと感じられ、お庭先の前栽は枯れ枯れになり、虫の音も鳴き弱りはてて、紅葉がだんだん色づいて行くところが、絵に描いたように美しいのを見渡して、思いがけず結構な宮仕えをすることになったと、あの夕顔の宿を思い出すのも恥ずかしい。竹薮の中に家鳩という鳥が、太い声で鳴くのをお聞きになって、あの先日の院でこの鳥が鳴いたのを、とても怖いと思っていた様子が、まぶたにかわいらしくお思い出されるので、 |
「年はいくつにかものしたまひし。あやしく世の人に似ず、あえかに見えたまひしも、かく長かるまじくてなりけり」とのたまふ。 |
「年はいくつにおなりだったか。不思議に普通の人と違って、か弱くお見えであったのも、このように長生きできなかったからなのだね」とおっしゃる。 |
「十九にやなりたまひけむ。右近は、亡くなりにける御乳母の捨て置きてはべりければ、三位の君のらうたがりたまひて、かの御あたり去らず、生ほしたてたまひしを思ひたまへ出づれば、いかでか世にはべらむずらむ。いとしも人にと、悔しくなむ。ものはかなげにものしたまひし人の御心を、頼もしき人にて、年ごろならひはべりけること」と聞こゆ。 |
「十九歳におなりだったでしょうか。右近めは、亡くなった乳母があとに残して逝きましたので、三位の君様がわたしをかわいがって下さって、お側離れず一緒に、お育て下さいましたのを思い出しますと、どうして生きておられましょう。どうしてこう深く親しんだのだろうと、悔やまれて。気弱そうでいらっしゃいました女君のお気持ちを、頼むお方として、長年仕えてまいりましたことでございます」と申し上げる。 |
「はかなびたるこそは、らうたけれ。かしこく人になびかぬ、いと心づきなきわざなり。自らはかばかしくすくよかならぬ心ならひに、女はただやはらかに、とりはづして人に欺かれぬべきが、さすがにものづつみし、見む人の心には従はむなむ、あはれにて、我が心のままにとり直して見むに、なつかしくおぼゆべき」などのたまへば、 |
「頼りなげな人こそ、女はかわいらしいのだ。利口で我の強い人は、とても好きになれないものだ。自分自身がてきぱきとしっかりしていない性情だから、女はただ素直で、うっかりすると男に欺かれてしまいそうなのが、そのくせ引っ込み思案で、男の心にはついていくのが、愛しくて、自分の思いのままに育てて一緒に暮らしたら、慕わしく思われることだろう」などと、おっしゃると、 |
「この方の御好みには、もて離れたまはざりけり、と思ひたまふるにも、口惜しくはべるわざかな」とて泣く。 |
「こちらのお好みには、きっとお似合いだったでしょうと、存じられますにつけても、残念なことでございますわ」と言って泣く。 |
空のうち曇りて、風冷やかなるに、いといたく眺めたまひて、 |
空が少し曇って、風も冷たく感じられる折柄、とても感慨深く物思いに沈んで、 |
「見し人の煙を雲と眺むれば 夕べの空もむつましきかな」 |
「契った人の火葬の煙をあの雲かと思って見ると この夕方の空も親しく思われるよ」 |
と独りごちたまへど、えさし答へも聞こえず。かやうにて、おはせましかば、と思ふにも、胸塞がりておぼゆ。耳かしかましかりし砧の音を、思し出づるさへ恋しくて、「正に長き夜」とうち誦じて、臥したまへり。 |
と独り詠じられたが、ご返歌も申し上げられない。このように、生きていらしたならば、と思うにつけても、胸が一杯になる。耳障りであった砧の音を、お思い出しになるのまでが、恋しくて、「八月九月正に長き夜」と口ずさんで、お臥せりになった。 |