第十章 明石の物語 男御子誕生
4. 明石女三代の和歌唱和
本文 |
現代語訳 |
御加持果ててまかでぬるに、御くだものなど近くまかなひなし、「こればかりをだに」と、いと心苦しげに思ひて聞こえたまふ。 |
御加持が終わって退出したので、果物など近くにさし上げ、「せめてこれだけでもお召し上がりください」と、たいそうおいたわしく思い申し上げなさる。 |
尼君は、いとめでたううつくしう見たてまつるままにも、涙はえとどめず。顔は笑みて、口つきなどは見苦しくひろごりたれど、まみのわたりうちしぐれて、ひそみゐたり。 |
尼君は、とても立派でかわいらしいと拝見するにつけても、涙を止めることができない。顔は笑って、口もとなどはみっともなく広がっているが、目のあたりは涙に濡れて、泣き顔していた。 |
「あな、かたはらいた」 |
「まあ、みっともない」 |
と、目くはすれど、聞きも入れず。 |
と、目くばせするが、かまいつけない。 |
「老の波かひある浦に立ち出でて しほたるる海人を誰れかとがめむ |
「長生きした甲斐があると嬉し涙に泣いているからと言って 誰が出家した老人のわたしを咎めたりしましょうか |
昔の世にも、かやうなる古人は、罪許されてなむはべりける」 |
昔の時代にも、このような老人は、大目に見てもらえるものでございます」 |
と聞こゆ。御硯なる紙に、 |
と申し上げる。御硯箱にある紙に、 |
「しほたるる海人を波路のしるべにて 尋ねも見ばや浜の苫屋を」 |
「泣いていらっしゃる尼君に道案内しいただいて 訪ねてみたいものです、生まれ故郷の浜辺を」 |
御方もえ忍びたまはで、うち泣きたまひぬ。 |
御方も我慢なされずに、つい泣いておしまいになった。 |
「世を捨てて明石の浦に住む人も 心の闇ははるけしもせじ」 |
「出家して明石の浦に住んでいる父入道も 子を思う心の闇は晴れることもないでしょう」 |
など聞こえ、紛らはしたまふ。別れけむ暁のことも、夢の中に思し出でられぬを、「口惜しくもありけるかな」と思す。 |
などと申し上げて、涙をお隠しになる。別れたという暁のことを、少しも覚えていらっしゃらないのを、「残念なことだった」とお思いになる。 |