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匂兵部卿

第二章 薫中将の物語 薫の厭世観と恋愛に消極的な性格    

3. 薫、目覚ましい栄達  

 

本文

現代語訳

 内裏にも、母宮の御方ざまの御心寄せ深くて、いとあはれなるものに思され、后の宮はた、もとよりひとつ御殿にて、宮たちももろともに生ひ出で、遊びたまひし御もてなし、をさをさ改めたまはず、「末に生まれたまひて、心苦しう、おとなしうもえ見おかぬこと」と、院の思しのたまひしを、思ひ出できこえたまひつつ、おろかならず思ひきこえたまへり。

 帝におかせられましても、母宮の御縁続きの御好意が厚くて、大変にかわいい者としてお思いあさばされ、后の宮も、また、もともと同じ邸で、宮方と一緒にお育ちになり、お遊びなさったころの御待遇を、すこしもお改めにならず、「晩年にお生まれになって、気の毒で、大きくなるまで見届けることができないこと」と、院がおっしゃっていたのを、お思い出し申し上げなさっては、並々ならずお思い申し上げていらっしゃった。

 右の大臣も、わが御子どもの君たちよりも、この君をばこまやかにやうごとなくもてなしかしづきたてまつりたまふ。

 右大臣も、ご自分のご子息たちよりも、この君を気にかけて大事にお扱い申し上げていらっしゃる。

 昔、光る君と聞こえしは、さるまたなき御おぼえながら、そねみたまふ人うち添ひ、母方の御後見なくなどありしに、御心ざまもの深く、世の中を思しなだらめしほどに、並びなき御光を、まばゆからずもてしづめたまひ、つひにさるいみじき世の乱れも出で来ぬべかりしことをも、ことなく過ぐしたまひて、後の世の御勤めも後らかしたまはず、よろづさりげなくて、久しくのどけき御心おきてにこそありしか、この君は、まだしきに、世のおぼえいと過ぎて、思ひあがりたること、こよなくなどぞものしたまふ。

 昔、光君と申し上げた方は、あのような比類ない帝の御寵愛であったが、お憎みなさる方があって、母方のご後見がなかったりなどしたが、ご性質も思慮深く、世間の事を穏やかにお考えになったので、比類ないご威光を、目立たないように抑えなさり、ついに大変な天下の騷ぎになりかねない事件も、無事にお過ごしになって、来世のご勤行も時期を遅らせなさらず、万事目立たないようにして、遠く先をみて穏やかなご性格の方であったが、この君は、まだ若いうちに、世間の評判が大変に過ぎて、自負心を高く持っていることは、この上なくいらっしゃる。

 げに、さるべくて、いとこの世の人とはつくり出でざりける、仮に宿れるかとも見ゆること添ひたまへり。顔容貌も、そこはかと、いづこなむすぐれたる、あなきよら、と見ゆるところもなきが、ただいとなまめかしう恥づかしげに、心の奥多かりげなるけはひの、人に似ぬなりけり。

 なるほど、そうあるはずのように、とてもこの世の人としてできているのではない、人間の姿を借りて宿ったのかと思えることがお加わりであった。お顔の器量も、はっきりそれと、どこが素晴らしい、ああ美しい、と見えるところもないが、ただたいそう優美で気品高げで、心の奥底が深いような感じが、誰にも似ていないのであった。

 香のかうばしさぞ、この世の匂ひならず、あやしきまで、うち振る舞ひたまへるあたり、遠く隔たるほどの追風に、まことに百歩の外も薫りぬべき心地しける。誰も、さばかりになりぬる御ありさまの、いとやつればみ、ただありなるやはあるべき、さまざまに、われ人にまさらむと、つくろひ用意すべかめるを、かくかたはなるまで、うち忍び立ち寄らむものの隈も、しるきほのめきの隠れあるまじきに、うるさがりて、をさをさ取りもつけたまはねど、あまたの御唐櫃にうづもれたる香の香どもも、この君のは、いふよしもなき匂ひを加へ、御前の花の木も、はかなく袖触れたまふ梅の香は、春雨の雫にも濡れ、身にしむる人多く、秋の野に主なき藤袴も、もとの薫りは隠れて、なつかしき追風、ことに折なしからなむまさりける。

 薫の香ばしさは、この世の匂いでなく、不思議なまでに、ちょっと身じろぎなさる周囲の、遠く離れている所の追い風も、本当に百歩の外も薫りそうな感じがするのであった。どなたにも、あれほどのご身分で、たいそう身をやつし、平凡な恰好でいられようか、あれこれと、自分こそは誰よりも良くあろうと、おしゃれをし気をつかうはずなのであるが、このように体裁の悪いほど、ちょっとお忍びに立ち寄ろうとする物蔭も、はっきりこの人と分かる薫りが隠れ場もないので、厄介に思って、ほとんど香を身におつけにならないが、たくさんの御唐櫃にしまってあるお香の薫りも、この君のは、何ともいえない匂いが加わり、お庭先の花の木も、ちょっと袖をお触れになる梅の香は、春雨の雫にも濡れ、身にしみて感じる人が多く、秋の野に主のいない藤袴も、もとの薫りは隠れて、やさしい追い風が、特に折り取られて一段と香が引き立つのであった。



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