第一章 大君の物語 薫と大君の実事なき暁の別れ
7. 実事なく朝を迎える
本文 |
現代語訳 |
はかなく明け方になりにけり。御供の人びと起きて声づくり、馬どものいばゆる音も、旅の宿りのあるやうなど人の語るを、思しやられて、をかしく思さる。光見えつる方の障子を押し開けたまひて、空のあはれなるをもろともに見たまふ。女もすこしゐざり出でたまへるに、ほどもなき軒の近さなれば、しのぶの露もやうやう光見えもてゆく。かたみにいと艶なるさま、容貌どもを、 |
いつのまにか夜明け方になってしまった。お供の人びとが起きて合図をし、馬どもが嘶く声も、旅の宿の様子など供人が話していたのを、ご想像されて、おもしろくお思いになる。光が見えた方面の障子を押し開けなさって、空のしみじみとした様子を一緒に御覧になる。女も少しいざり出でなさったが、奥行きのない軒の近さなので、忍草の露もだんだんと光が見えて行く。お互いに実に優美な姿態、容貌を、 |
「何とはなくて、ただかやうに月をも花をも、同じ心にもてあそび、はかなき世のありさまを聞こえ合はせてなむ、過ぐさまほしき」 |
「何というのではなくて、ただこのように月や花を、同じような気持ちで愛で、無常の世の有様を話し合って、過ごしたいものですね」 |
と、いとなつかしきさまして語らひきこえたまへば、やうやう恐ろしさも慰みて、 |
と、たいそう親しい感じでお語らい申されると、だんだんと恐ろしさも慰められて、 |
「かういとはしたなからで、もの隔ててなど聞こえば、真に心の隔てはさらにあるまじくなむ」 |
「このように面と向かっての体裁の悪い恰好でなく、何か物を隔ててなどしてお答え申し上げるならば、ほんとうに心の隔てはまったくないのですが」 |
といらへたまふ。 |
とお答えになる。 |
明くなりゆき、むら鳥の立ちさまよふ羽風近く聞こゆ。夜深き朝の鐘の音かすかに響く。「今は、いと見苦しきを」と、いとわりなく恥づかしげに思したり。 |
明るくなってゆき、群鳥が飛び立ち交う羽風が近くに聞こえる。まだ暗いうちの朝の鐘の音がかすかに響く。「今は、とても見苦しいですから」と、とても無性に恥ずかしそうにお思いになっていた。 |
「ことあり顔に朝露もえ分けはべるまじ。また、人はいかが推し量りきこゆべき。例のやうになだらかにもてなさせたまひて、ただ世に違ひたることにて、今より後も、ただかやうにしなさせたまひてよ。よにうしろめたき心はあらじと思せ。かばかりあながちなる心のほども、あはれと思し知らぬこそかひなけれ」 |
「事あり顔に朝露を分けて帰ることはできません。また、人はどのように推量申し上げましょうか。いつものように穏便にお振る舞いになって、ただ世間一般と違った問題として、今から後も、ただこのようにしてくださいませ。まったく不安なことはないとお思いください。これほど一途に思い詰める心のうちを、いじらしいとお分かりくださらないのは効ないことです」 |
とて、出でたまはむのけしきもなし。あさましく、かたはならむとて、 |
と言って、お帰りなるような様子もない。あきれて、見苦しいことと思って、 |
「今より後は、さればこそ、もてなしたまはむままにあらむ。今朝は、また聞こゆるに従ひたまへかし」 |
「今から後は、そのようなことなので、仰せの通りにいたしましょう。今朝は、またお願い申し上げていることを聞いてくださいませ」 |
とて、いとすべなしと思したれば、 |
と言って、ほんとうに困ったとお思いなので、 |
「あな、苦しや。暁の別れや。まだ知らぬことにて、げに、惑ひぬべきを」 |
「ああ、つらい。暁の別れだ。まだ経験のないことなので、なるほど、迷ってしまいそうだ」 |
と嘆きがちなり。鶏も、いづ方にかあらむ、ほのかにおとなふに、京思ひ出でらる。 |
と嘆きがちである。鶏も、どこのであろうか、かすかに鳴き声がするので、京が自然と思い出される。 |
「山里のあはれ知らるる声々に とりあつめたる朝ぼらけかな」 |
「山里の情趣が思い知られます鳥の声々に あれこれと思いがいっぱいになる朝け方ですね」 |
女君、 |
女君は、 |
「鳥の音も聞こえぬ山と思ひしを 世の憂きことは訪ね来にけり」 |
「鳥の声も聞こえない山里と思っていましたが 人の世の辛さは後を追って来るものですね」 |
障子口まで送りたてまつりたまひて、昨夜入りし戸口より出でて、臥したまへれど、まどろまれず。名残恋しくて、「いとかく思はましかば、月ごろも今まで心のどかならましや」など、帰らむことももの憂くおぼえたまふ。 |
障子口までお送り申し上げなさって、昨夜入った戸口から出て、お臥せりになったが、眠ることはできない。名残惜しくて、「ほんとにこのようにせつなく思うのだったら、幾月も今までのんびりと構えていられなかったろうに」などと、帰ることを億劫に思われなさる。 |