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蜻蛉

第五章 薫の物語 明石中宮の女宮たち   

3. 小宰相の君、氷を弄ぶ   

 

本文

現代語訳

 心強く割りて、手ごとに持たり。頭にうち置き、胸にさし当てなど、さま悪しうする人もあるべし。異人は、紙につつみて、御前にもかくて参らせたれど、いとうつくしき御手をさしやりたまひて、拭はせたまふ。

 無理して割って、それぞれの手に持っていた。頭の上に置いたり、胸に当てたりなど、体裁の悪い恰好をする女もいるのであろう。他の人は、紙に包んで、御前にもこのようにして差し上げたが、とてもかわいらしいお手を差し出しなさって、拭わせなさる。

 「いな、持たらじ。雫むつかし」

 「いえ、持てません。雫が嫌です」

 とのたまふ御声、いとほのかに聞くも、限りもなくうれし。「まだいと小さくおはしまししほどに、我も、ものの心も知らで見たてまつりし時、めでたの稚児の御さまや、と見たてまつりし。その後、たえてこの御けはひをだに聞かざりつるものを、いかなる神仏の、かかる折見せたまへるならむ。例の、やすからずもの思はせむとするにやあらむ」

 とおっしゃるお声、とてもかすかに聞くのも、この上なく嬉しい。「まだとても幼くいらしたときに、わたしも、何も分からず拝見したとき、何とかわいらしい姫宮か、と拝見した。その後は、まったく姫宮のご様子をさえ聞かなかったが、どのような神仏が、このような機会をお見せになったのであろうか。いつもの、心安からず物思いをさせようとするのであろうか」

 と、かつは静心なくて、まもり立ちたるほどに、こなたの対の北面に住みける下臈女房の、この障子は、とみのことにて、開けながら下りにけるを思ひ出でて、「人もこそ見つけて騒がるれ」と思ひければ、惑ひ入る。

 と、一方では落ち着かず、じっと見つめて佇んでいると、こちらの対の北面に住んでいた下臈の女房が、この襖障子は、急ぎの用事で、開けたままで下りて来たのを思い出して、「人が見つけて騒いだら大変だ」と思ったので、あわてて入って来る。

 この直衣姿を見つくるに、「誰ならむ」と心騷ぎて、おのがさま見えむことも知らず、簀子よりただ来に来れば、ふと立ち去りて、「誰れとも見えじ。好き好きしきやうなり」と思ひて隠れたまひぬ。

 この直衣姿を見つけて、「誰だろう」とびっくりして、自分の姿を見られることも構わず、簀子からずんずんやって来たので、ふと立ち去って、「誰とも知られまい。好色なようだ」と思って隠れなさった。

 この御許は、

 この女房は、

 「いみじきわざかな。御几帳をさへあらはに引きなしてけるよ。右の大殿の君たちならむ。疎き人、はた、ここまで来べきにもあらず。ものの聞こえあらば、誰れか障子は開けたりしと、かならず出で来なむ。単衣も袴も、生絹なめりと見えつる人の御姿なれば、え人も聞きつけたまはぬならむかし」

 「大変なことだわ。御几帳までを丸見えにしていたことだわ。右の大殿の公達であろうかしら。疎遠な方は、また、ここまでは来るはずがない。何かの噂が立ったら、誰が襖障子を開けていたのだろうかと、きっと出て来るだろう。単衣も袴も、生絹のように見えた方のお姿なので、誰もお気づきになることができなかっただろう」

 と思ひ極じてをり。

 と困りきっていた。

 かの人は、「やうやう聖になりし心を、ひとふし違へそめて、さまざまなるもの思ふ人ともなるかな。そのかみ世を背きなましかば、今は深き山に住み果てて、かく心乱れましやは」など思し続くるも、やすからず。「などて、年ごろ、見たてまつらばやと思ひつらむ。なかなか苦しう、かひなかるべきわざにこそ」と思ふ。

 あの方は、「だんだんと聖になって来た心を、一度踏み外して、さまざまに物思いを重ねる人となってしまったなあ。その昔に出家遁世してしまったら、今は深い山奥に住みついて、このような心を乱すことはないものを」などとお思い続けるにつけても、落ち着かない。「どうして、長年、お顔を拝見したものだと思っていたのであろう。かえって苦しいだけで、何にもならないことであるのに」と思う。



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