第二章 浮舟の物語 浮舟、小君との面会を拒み、返事も書かない
3. 浮舟、小君との面会を拒む
本文 |
現代語訳 |
まがふべくもあらず、書き明らめたまへれど、異人は心も得ず。 |
疑う余地もなく、はっきりお書きになっているが、他の人には事情が分からない。 |
「この君は、誰れにかおはすらむ。なほ、いと心憂し。今さへ、かくあながちに隔てさせたまふ」 |
「この君は、どなたでいらっしゃのだろう。やはり、とても情けない。今になってさえ、このようにひたすらお隠しになっている」 |
と責められて、すこし外ざまに向きて見たまへば、この子は、今はと世を思ひなりし夕暮れに、いと恋しと思ひし人なりけり。同じ所にて見しほどは、いと性なく、あやにくにおごりて憎かりしかど、母のいとかなしくして、宇治にも時々率ておはせしかば、すこしおよすけしままに、かたみに思へり。 |
と責められて、少し外の方を向いて御覧になると、この子は、これが最期と思った夕暮れにも、とても恋しいと思った人なのであった。一緒の所に住んでいたときは、とても意地悪で、妙に生意気で憎らしかったが、母親がとてもかわいがって、宇治にも時々連れておいでになったので、少し大きくなってからは、お互いに仲好くしていた。 |
童心を思ひ出づるにも、夢のやうなり。まづ、母のありさま、いと問はまほしく、「異人びとの上は、おのづからやうやうと聞けど、親のおはすらむやうは、ほのかにもえ聞かずかし」と、なかなかこれを見るに、いと悲しくて、ほろほろと泣かれぬ。 |
子供心を思い出すにつけても、夢のようである。真先に、母親の様子を、とても尋ねたく、「その他の人びとについては自然とだんだん聞くが、母親がどうしていらっしゃるかは、少しも聞くことができない」と、なまじこの子を見たばかりに、とても悲しくなって、ぽろぽろと涙がこぼれた。 |
いとをかしげにて、すこしうちおぼえたまへる心地もすれば、 |
たいそう可憐で、少し似ていらっしゃるところがあるように思われるので、 |
「御兄弟にこそおはすめれ。聞こえまほしく思すこともあらむ。内に入れたてまつらむ」 |
「ご姉弟でいらっしゃるようだ。お話し申し上げたくお思いでいることもあろう。内にお入れ申そう」 |
と言ふを、「何か、今は世にあるものとも思はざらむに、あやしきさまに面変りして、ふと見えむも恥づかし」と思へば、とばかりためらひて、 |
と言うのを、「どうして、今はもう生きている者と思っていないのに、尼姿に身を変えて、急に会うのも気がひける」と思うと、しばらくためらって、 |
「げに、隔てありと、思しなすらむが苦しさに、ものも言はれでなむ。あさましかりけむありさまは、珍かなることと見たまひてけむを、うつし心も失せ、魂などいふらむものも、あらぬさまになりにけるにやあらむ。いかにもいかにも、過ぎにし方のことを、我ながらさらにえ思ひ出でぬに、紀伊守とかありし人の、世の物語すめりし中になむ、見しあたりのことにやと、ほのかに思ひ出でらるることある心地せし。 |
「おっしゃるとおり、隠し事があると、お思いになるのがつらくて、何も申すことができません。情けなかった姿は、珍しいことだと御覧になったでしょうが、正気も失い、魂などと申すものも、以前とは違ったものになってしまったのでしょうか、何ともかとも、過ぎ去った昔のことを、自分ながら全然思い出すことができないところに、紀伊守とかいった人が、世間話をした中で、知っていた方のことかと、わずかに思い出される気がしました。 |
その後、とざまかうざまに思ひ続くれど、さらにはかばかしくもおぼえぬに、ただ一人ものしたまひし人の、いかでとおろかならず思ひためりしを、まだや世におはすらむと、そればかりなむ心に離れず、悲しき折々はべるに、今日見れば、この童の顔は、小さくて見し心地するにも、いと忍びがたけれど、今さらに、かかる人にも、ありとは知られでやみなむ、となむ思ひはべる。 |
その後は、あれやこれやと考え続けましたが、いっこうにはっきりと思い出されませんが、ただ一人おいでになった方の、何とか幸福にと並々ならず思っていらしたような母親が、まだ生きておいでかと、そのことばかりが脳裏を離れず、悲しい時々がございますので、今日見ると、この童の顔は、小さい時に見たことのある気がするのにつけても、とても堪えがたい気がするが、今さら、このような人に、生きていると知られないで終わりたいと、存じております。 |
かの人、もし世にものしたまはば、それ一人になむ、対面せまほしく思ひはべる。この僧都の、のたまへる人などには、さらに知られたてまつらじ、とこそ思ひはべりつれ。かまへて、ひがことなりけりと聞こえなして、もて隠したまへ」 |
あの母親が、もしこの世に生きておいででしたら、その方お一人だけには、お目にかかりたく存じております。この僧都が、おっしゃっている方などには、まったく知られ申すまいと、存じております。何とか工夫して、間違いであると申し上げて、隠してくださいませ」 |
とのたまへば、 |
とおっしゃるので、 |
「いと難いことかな。僧都の御心は、聖といふなかにも、あまり隈なくものしたまへば、まさに残いては、聞こえたまひてむや。後に隠れあらじ。なのめに軽々しき御ほどにもおはしまさず」 |
「まことに難しいことですね。僧都のお考えは、聖と申すなかでも、あまりにに正直一途の方でいらっしゃいますから、まさに何も残さずに申し上げなさったことでしょう。後で分かってしまいましょう。いい加減な軽々しいご身分でもいらっしゃらないし」 |
など言ひ騷ぎて、 |
などと言い騒いで、 |
「世に知らず心強くおはしますこそ」 |
「見たこともないほど強情でいらっしゃること」 |
と、皆言ひ合はせて、母屋の際に几帳立てて入れたり。 |
と、皆で話し合って、母屋の際に几帳を立てて入れた。 |