78. 職の御曹司におはします頃 
  本文  現代語訳
  の御曹司におはします頃、木立などのはるかにものふり、屋のさまも高う、けどほけれど、すずろにをかしうおばゆ。母屋は鬼ありとて、南へ隔ていだして、南のに御帳立てて、又廂に女房はさぶらふ。  職(という役職)のご子息がいらっしゃった頃、群がって立っている木などが隔たり古びて、建物の様子も高く、人気遠い感じがするけれど何というわけもなく興味ぶかい気がする。母屋には鬼がいるといって南側へしきりを作り出して、中宮の御寝所とするため御帳台をたてて、又廂に女房達が控えている。
  近衛の御門より、左衛門の陣にまゐり給ふ上達部の前駆ども、殿上人のはみじかければ、大前駆小前駆とつけて聞きさわぐ。あまたたびになれば、その聲どももみな聞き知りて、「それぞ」「かれぞ」などいふに、また、「あらず」などいへば、人して見せなどするに、いひあてたるは、「さればこそ」などいふもをかし。  陽明門より、建春門内の詰所においでになった上達部の前駆たちは、殿上人のは短く引くが、先払いの掛け声を長く引き、短く引き、大騒ぎする。何度も度重なると、その声をみんなが聞きなれて、「その方の」「あの方の」などと言うが、「いえちがいます。」などと言えば、人に頼んで見せたりするので、言い当てたりすると「それごらんなさい」などと言うのも興味深い。
   
  有明のいみじう霧りわたりたる庭に、下りてありくをきこしめして、御前にも起きさせ給へり。うへなる人々のかぎりは出でゐ、下りなどして遊ぶに、やうやう明けもてゆく。   月が残る明け方の、とても霧が濃く立ち込める庭に、降りて歩く音をお聞きになって中宮がお起きになった。お側の女房は皆済子に出て坐ったり庭に下りたりして散策していると、次第に夜は明けてゆく。
  「左衛門の陣にまかり見ん」とていけば、我も我もとおひつぎていくに、殿上人あまた聲して、「なにがし一聲の秋」と誦(ず)してまゐる音すれば、逃げ入り、物などいふ。「月を見給ひけり」など、めでて歌よむもあり。  「左衛門の陣に出向いてみよう」と言って行くと、我も我もと追いかけていくと、殿上人の声がたくさんして、「だれそれの一声の秋」と詠んでいらっしゃる声がすると、逃げ込み、歌などを詠む。「月をご覧になった。」などと、賞賛して歌を詠む人もいる。
   
  夜も晝(昼)も、殿上人の絶ゆるをりなし。上達部までまゐり給ふに、おぼろげに、いそぐことなきは、かならずまゐり給ふ。  昼も夜も、殿上人がいなくなる時はない。上達部までいらっしゃるのに、特別のこともなく、急ぐこともない場合は、必ずいらっしゃる。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
 

1 木立…内裏の東北方、陽明門より建春門に至る道に面する。

2 又廂…廂の外側へ更に設けた廂の称。孫廂とも称する。

3 近衛の御門…。大内裏の東面の門。

4 左衛門の陣…建春門内に設けた武官の詰所。建春門は内裏東面外郭の門で、陽明門の西に当たる。

6 なにがし一聲の秋…倭漢朗詠集、納涼、源英明「池冷水無三伏夏松高風有一声秋」。

7 おぼろげ…「おぼろげ」は並大抵という意。