35. 小白河といふ所は
  本文  現代語訳
  小白河といふ所は、小一條の大将殿の御家ぞかし。そこにて上達部、結縁の八講し給ふ。世の中の人、いみじうめでたきにて、「おそからん車などは立つべきやうもなし」といへば、露とともにおきて、げにぞひまなかりける。轅のうへにまたさしかさねて、みつばかりまではすこし物心きこゆべし。   小白河殿という所は、小一條の大将済時殿の御家である。上達部たちは、そこで結縁の八講をしなさる。世の中の人が、甚だしく見事なこととして、「おそく行く車などは立てようもない。」と言えば、朝露の置くとともに起きて行くと、なるほど噂通りすき間もなかった。前列の轅(ながえ)の上に後列の車台をさし重ねて、三列目位までは幾らか講釈も聞えそうだ。
  六月十よ日にて、あつきこと世にしらぬ程なり。池のはちすを見やるのみぞいと涼しき心地する。左右の大臣たちをおき奉りては、おはせぬ上達部なし。二藍の指貫、直衣、浅葱の帷子どもぞすかし給へる。すこしおとなび給へるは、青鈍の指貫、しろき袴もいとすずしげなり。佐理の宰相なども、みなわかやぎだちて、すべてたふときことのかぎりもあらず、をかしき見物なり。   六月十余日で、暑いことは前例のないほどである。池の蓮を見やる時ばかりは、大変涼しい心地がする。左右の大臣たちを差し置いては、いらっしゃらない上達部はいない。薄青色の帷子を生絹の綾の直衣の下に透かして着用していらっしゃる。少し大人びていらっしゃる方は、青鈍色の指貫、白い袴もたいそう涼しげである。佐理の宰相なども、みな、若作りして、すべて尊いことには限りがなく、面白く、見る価値のあるものである。
   
  廂の簾たかうあげて、長押のうへに、上達部はおくにむきてながながとゐ給へり。そのつぎには、殿上人・若君達、狩装束・直衣などもいとをかしうて、えゐもさだまらず、ここかしこにたちさまよひたるもいとをかし。實方の兵衛の佐長命侍従など、家の子にて今すこしいで入りなれたり。まだわらはなる君など、いとをかしくておはす。  廂のすだれを高く上げて、長押の上に、上達部は奥に向いて長々と座っていらっしゃった。その次には、殿上人・若君たちが、狩装束・直衣などでたいそう奥ゆかしくして、とてもおちついて坐っておられず、あちこち立ちさまようのもたいそう奥ゆかしい。實方の兵衛の佐、長命侍従など、良家の子弟として、ちょうど少し入りなれたところだ。まだ幼い君などは、たいそうおくゆかしくしていらっしゃる。
  すこし日たくるほどに、三位の中将とは関白殿をぞきこえし、かうのうすものの二藍の御直衣、二藍の織物の指貫、濃蘇枋のしたの御袴に、はりたるしろきひとへのいみじうあざやかなるを着給ひて、あゆみ入り給へる、さばかりかろびすずしげなる御中に、あつかはしげなるべけれど、いといみじうめでたしとぞ見え給ふ。朴・塗骨など、骨はかはれど、ただあかき紙を、おしなべてうちつかひもたまへるは、撫子のいみじう咲きたるにぞいとよく似たる。   少し日が長くなると、三位の中将とは関白殿と世間に聞こえるが、の下着の帷子の二藍染の直衣、二藍染の織物の指貫、濃い赤みがかった紫の下の袴に、のりを張った白い単衣のたいそうあざやかなのをお召しになって歩み入りになる、そのように身軽に涼しげな方々の中に、暑苦し気であるけれども、たいそう大変見事だとお見えになる。扇の骨、朴の木製のものと漆塗りのものなど、骨は変わっても、ただ赤い紙を、一座の人が全体に一斉にお使いになるのは、撫子が美しく咲き乱れるのにたいそうよく似ている。
   
  まだ講師ものぼらぬ程、懸盤して、何にかあらん、ものまゐるなるべし。義懐の中納言の御さま、つねよりもまさりておはするぞかぎりなきや。色あひのはなばなと、いみじうにほひあざやかなるに、いづれともなきなかのかたびらを、これはまことにすべて、ただ直衣ひとつを着たるやうにて、つねに車どものかたを見おこせつつ、ものなどいひかけ給ふ、をかしと見ぬ人はなかりけん。   まだ講師も壇上に登っていないとき、懸盤にのせて、何であろうか、何者かがおいでになった。義懐の中納言の御様子は、いつもよりも上等でいらっしゃることに限りなしだ。色合いが華々しく、たいそう美しく鮮やかであって、いずれがまさるとも見えぬ人々の帷子の中で、中納言はそれを袴の下に着こみ、ほんとうにまったく、ただ直衣だけしか着ていないご様子で、常に車どもの方に目をくばりながら、何か言いかけなさる、これを奥ゆかしいと思わない人はなかったであろう。
  後に来たる車の、ひまもなかりければ、池にひきよせてたちたるを見給ひて、實方の君に、「消息つきづきしういひつべからん者ひとり」と召せば、いかなる人にかあらん、えりて率ておはしたり。「いかがいひやるべき」と、ちかうゐ給ふかぎりのたまひあはせて、やり給ふことばはきこえず、いみじう用意して車のもとへあゆみよるを、かつわらひ給ふしりのかたによりていふめる。ひさしうたてれば、「歌などよむにやあらむ。兵衛の佐、返しおもひまうけよ」などわらひて、いつしか返りごときかむと、あるかぎり、おとな上達部まで、みなそなたざまに見やり給へり。げにぞ顕証の人まで見やりしもをかしかりし。  後に来た車は、車を立てるに適当なすき間もなかったので。池にひきよせて車を立てるのをご覧になって、義懐殿は實方の君に、「口上をうまく言えそうな者を一人呼べ」と、お呼びになると、どんな人であろうか、選ばれて率いられていらっしゃった。「あの女車にどう言ってやったらよかろうか」と、側近くおられる方々だけで相談されて、おやりになった言葉は理解されず、十分準備して車の元へ歩み寄るのを、一方ではお笑いになる。使者は女車の後方によって言っているようである。時間が経って、「歌など詠んでいるのであろうか。實方殿、返歌を考えよ」などと笑って、いつになったら返事が聞かれるか、と居合わせた者は年取った上達部まで、みなそちらのほうをご覧になる。なるほど車に乗らず立っている聴衆まで見やるのも面白い。
   
  返りごとききたるにや、すこしあゆみくるほどに、扇をさしいでてよびかへせば、歌などの文字いひあやまりてばかりや、かうはよびかへさむ、ひさしかりつる程、おのづからあるべきことはなほすべくもあらじものを、とぞおぼえたる。ちかうまゐりつくも心もとなく、「いかにいかに」と、たれもたれも問ひ給ふ。ふともいはず、権中納言ぞのたまひつれば、そこにまゐり、けしきばみ申す。三位の中蒋、「とくいへ。あまり有心すぎて、しそこなふな」とのたまふに、「これもただおなじことになん侍る」といふは聞ゆ藤大納言、人よりけにさしのぞきて、「いかがいひたる」とのたまふめれば、三位の中将、「いとなほき木をなんおしをりためる」と聞え給ふに、うちわらひ給へば、みな何となくさとわらふこゑ、聞えやすらん。  使者が車の主から口上の返事を聞いたのか、少し歩いてくる間に、扇を差し出して呼び返せば、歌などの文字を言いそこねたくらいで、このように呼び返そうか、長い間かかったのだから、自然そうときまったことは、簡単に直すべきでもないのに、と私には思われた。近くに到着しても待ち遠しく、「どのようか、どのようか」と、誰も彼もがお尋ねになる。時が経ったともいわず、義懐殿がおっしゃれば、そこに参ってもったいぶって申し上げる。道隆殿は、「早く言え。あまり趣向を凝らしすぎて、しそこなうな。」と、おっしゃって「この御報告も興のないことですから、しそこなったら同然だ。」とおっしゃる。為光殿は、他の人よりも際立って首を出して、「何と言ったか」とおっしゃると、道隆殿は、「ごくまっすぐな木を、わざとへし折ったようなものだ」とおっしゃるので、為光殿がお笑いになると、みなが何となくさっと笑う声があの女車に聞えるであろうか。
  中納言、「さてよびかへさざりつるさきは、いかがいひつる。これやなほしたること」と問ひ給へば、「ひさしうたちて侍りつれど、ともかくも侍らざりつれば、さば、帰りまゐりなむ』とて帰り侍りつるに、よびて」などぞ申す。   義懐殿は、「さて、呼び返さない先は、どのように言っているのか。これは言い直した返事か」と、お尋ねになると、「しばらく立っておりましたけれども、どうとも返事がありませんでしたので、『それでは帰ることにいたしましょう』と言って帰ろうとしているところへ、呼んで」などと申す。
   
 「たが車ならん、見しり給へりや」などあやしがり給ひて、「いざ、歌よみて、此の度はやらん」などのたまふ程に、講師のぼりぬれば、みなゐしづまりて、そなたをのみ見る程に、車はかいけつやうにうせにけり。下簾など、ただけふはじめたりと見えて、こきひとへがさねに二藍の織物、蘇枋のうす物のうは着など、しりにも摺りたる、やがてひろげながらうちさげなどして、なに人ならん、なにかはまた、かたほならんことよりは、げにときこえて、なかなかいとよしとぞおぼゆる。   「誰の車であろうか、見知りしているか」などと不思議がりなさって「さあ、歌を詠んで今度は贈ろう」などとおっしゃる間に、講師が上れば、一同席におちついて講師の方ばかり見ているうちに、例の女車はかき消すようになくなってしまった。下簾などは、ほんの今日つかいはじめたらしく、濃い紅の単がさねに、二藍の織物、蘇枋のうす物の上着など、車の後方にも擦り付けた青摺の裳、だんだん下に向かって広げながら下げたりして、どのような人だろうか、何でまた悪いことがあろう、なまじつまらぬ返事などするよりは、なるほどああした無愛想なやりかたの方がましにきこえ、かえって立派だとそう思うことだ。
  朝座講師淸範高座のうへも光りみちたる心地して、いみじうぞあるや。あつさのわびしきにそへて、しさしたることのけふすぐすまじきをうちおきて、ただすこし聞きてかへりなんとしつるに、しきなみにつどひたる車なれば、出づべきかたもなし。朝講はてなば、なほいかで出でなむと、まへなる車どもに消息すれば、ちかくたたむがうれしさにや、「はやはや」と引きいであけていだすを見給ひて、いとかしがましきまで、老上達部さへわらひにくむをも、ききいれず、いらへもせで、しひてせばがりいづれば、権中納言の、「やや、まかりぬるもよし」とて、うちゑみ給へるぞめでたき。それも耳にもとまらず、あつきにまどはしいでて、人して、「五千人のうちには入らせ給はぬやうあらじ」と聞えかけてかへりにき。   朝の説教の講師淸範は、高座の上も光満ちている心地がして、たいそう素晴らしい事ではないか。暑さがやりきれないのにつれて、やりかけた仕事で今日を越せないのをさしおいて、ほんの少し聴いて帰ろうとしたのに、あとからあとから幾重にも車が集ったので出る向きもない。朝座の講がすんだなら、なお、どうしても出ようと、退路にある車たちに、お伺いを立ててみると、そばの人が引き払うのがうれしいのか、「さあどうぞ」と、後の車の人が自分の車をひき出すのをご覧になって、たいそう口うるさい人まで、老上達部さえ笑いとがめるのも聞き入れず、返事もしないで、敢えて狭いところをむりやり出ると、義懐殿が、「やあ、退出したのもまたよい。」と言って微笑みなさるのも見事である。それも、耳に止まらず、暑い所へ迷い出て、人をやって「そうおっしゃるあなたは五千人の増上慢の一人でしょう」と追い打ちをかけて帰ってしまった。
   
  そのはじめより、やがてはつる日まで、たてたる車のありけるに、人より来とも見えず、すべてただあさましう、繪などのやうにて過しければ、ありがたくめでたく心にくく、いかなる人ならん、いかでしらんと、問ひ尋ね給ひけるを、聞き給ひて、藤大納言などは、「なにかめでたからん。いとにくくゆゆしき者にこそあなれ」とのたまひけるこそをかしかりしか。   その初めから最後の日まで、並んでいる車もあるのだが、目当ての人がやってきたとも見えず、すべてただ情けなく、絵などのようにして過ごしたので、有り難く、めでたく、気がかりで、どういう人であろうか、何か知っていないかと、問い尋ねなさるのを、お聞きになって、為光殿などは、「何がめでたいものか。たいそうしゃくにさわり、忌まわしい者に違いない。」と、おっしゃられることこそ面白い事ではないか。
  さて、その二十日あまりに、中納言、法師になり給ひにしこそあはれなりしか。櫻などちりぬるも、なほ世のつねなりや。「おくをまつまの」とだにいふべくもあらぬ御ありさまにこそみえ給ひしか。   さて、その月の二十日過ぎに、義懐殿は、法師におなりになったことこそしみじみとしているものだ。桜が散るのも、これに比べれば世の常なのだな。「おくをまつまの」といった朝顔の盛りにも例えられない豪勢な御様子でいらっしゃったのに。
   
   
 

1 小白河…小白河殿。白河に近い所にあったと考えられるが詳細は不明。白河は賀茂川以東、粟田口以北で、東山の麓に接する地。

2 小一條の大将…小一条左大臣師尹の二男済時。寛和二年四十六歳。権大納言右近衛大将で中宮大夫(円融帝中宮遵子の)を兼ねていた。宣耀殿女御の兄。

3 おそからん車…おそく行く車などは立てようもない。

4 露とともにおきて…朝露の置くとともに起きて行くと、成程噂通りすき間もなかった。露・おく・ひまは縁語。

5 轅のうへに…前列の轅(ながえ)の上に後列の車台をさし重ねて。近く寄って聴聞しようと車が密集する様である。

6 みつばかりまで…三列目位までは幾らか講釈も聞えそうだ。

7 左右の大臣…当時左大臣は源雅信、右大臣は藤原兼家。

8 二藍の指貫…薄青色の帷子を生絹の綾の直衣の下に透かして着用しているのである。このあたり三巻本に誤脱があり、能因本を参考した。

9 佐理の宰相…異文もあるが三巻本に従う。小野宮実頼の孫。当時従三位参議、四十三歳。

10 えゐもさだまらず…とてもおちついて坐っておられず。

11 實方の兵衛の佐…小一条左大臣師尹の孫。済時の養子となる。寛和二年当時左少将。

12 長命侍従…済時の子相任の幼名か。当時十六歳。

13 家の子…平安朝文学では多く良家の子弟をいう。

14 三位の中将…今の関白道隆。当時従三位右中将。

15 かうのうすもの…未詳。「香」を染め色の名(丁子染)とし。下着の帷子とも考えられるが言葉が足りない。前田本「からのうすもの」によるべきか。唐綾の薄物で直衣の地質を意味する。

16 はりたる…糊をつけ漆塗の板に張り光沢を出す。

17 さばかりかろびすずしげなる御中に…あれほど軽装で涼しそうな方々の中で。

18 朴・塗骨扇の骨。朴の木製のものと漆塗りのもの。能因本の「ほそぬりぼね」は誤りか。

19 おしなべて…一座の人が全体に。

20 懸盤して…懸盤にのせて。懸盤は貴人の用いる膳の一種。四足の台の上に折敷をのせかけた形なのでこの名がある。

21 義懐…一条摂政伊尹の五男。当時三十歳。妹懐子は花山天皇御生母。皇室との関係で当時最も権勢があった。寛和二年花山天皇に殉じて出家したことは本段の末尾にも見える。本段の中心人物として注意したい。

23 いづれ…いずれがまさるとも見えぬ人々の帷子の中で、中納言はそれを袴の下に着こめ、ほんとうにまったく、ただ直衣だけしか着ていない風で。

24 ひまも…車を立てるに適当なすき間もなかったので。

25 消息を…中納言の詞。口上をうまく言えそうな者を。

26 いかが…あの女車にどう言ってやったらよかろうかと、側近くおられる方々だけで相談されて。

27 かつわらひ給ふ…使者に期待する一方では笑い給うの意。

28 しりのかた…使者は女車の後方によって。車は後向きに立てるから後方が正面に向いている。

29 「歌など…人々の詞。車の主への想像である。

30 兵衛の佐…實方をさす。当時左少将であった筈で、作者の思い違いの官職名であろう。

33 おとな…年とった上達部にいたるまで。

34 顕証の人…「顕証」はあらわなこと。車に乗らず立って聴聞する人々をさす。

35 返りごと…使者が車の主から口上の返事を聞いたのか。

36 すこし…車の主たる婦人の様子である。

37 歌などの…歌などの文字を言いそこねたくらいで、このように呼び返そうか、長い間かかったのだから、自然そうときまったことは、簡単に直すべきでもあるまいに、と私には思われた、但し能因本の本文では多少解釈が異なる。

38 まゐりつくも…使の者が近く帰りつくのも待ち遠しく。

39 権中納言…使に命じられたのは権中納言(義懐)その人だから、そこに参って勿体ぶって言上する。

40 三位の中蒋…道隆。前に「三位の中将とは云々」とある。

41 有心…思慮ある意から転じて、ここは趣向をこらす、風流をこらすの意。「無心」の対。

42 この御報告も興のないことですから、しそこなったら同然でございます。

43 藤大納言…九条師輔の九男為光か。当時大納言。四十五歳。

45 いとなほき木…ごくまっすぐな木を、わざと押し折ったようなものだの意。当時の諺か。後撰集、雑二に「いたくこと好む由を時の人いふとききて 高津内親王」として「直き木にまがれる枝もあるものを毛を吹き疵をいふがわりなさ」とある。

46 うちわらひ…藤大納言が。

47 さと…さっと。擬声語。

49 これや…これは言いなおした返事か。

52 下簾…車の前後にある簾の内側にかける長い帛。あまりを簾の外に垂らす。

54 こきひとへがさね…は五月から八月の夏期着る。単の衣を二枚重ねて袖口やつまを縫い合せず糊を引いて捻り一枚のようにみせるという。

56 …青摺の裳。白地の絹に山藍などで文様を摺りつけたもの。

58 朝座…朝の説経。八講は朝夕二座で四日間行う。

59 講師淸範…説経の名人で文殊の化身と称された由が古事談その他に見える。長徳四年権律師となり、長保元年三十八歳で寂。寛和二年当時二十五歳。

63 まへなる車…底本系統本に「うへ」とあるが諸本により改める。車をうしろ向きに立てたので、退路にある車を「まへなる車」といったのである。

64 「はやはや」…さあさあどうぞ。通説は「早々と後の車の人が己の車をひき出して」と解釈する。

65 せばがりいづれば…狭いところをむりやり出ると。「いづれば」は、三巻本「つれ」。能因本により補う。

66 やや、まかりぬるもよし…やあ、退出したのもまたよい。法華経方便品に見える故事によって戯れたもの。釈迦が開三顕一の法を説こうとした時、五千人の増上慢が法座を起って退いた。釈迦はこれを制止せず、「如是増上慢人退亦佳矣」と言ったという。

67 五千人…そうおっしゃるあなたは五千人の増上慢の一人でしょうの意。右の法華経の故事により、釈迦如来を気どった義懐に応酬したもの。

68 ありがたく…稀有なさま。

69 問ひ尋ね給ひける…中納言の言動か。但し能因本・前田本には「給ひ」がなく、作者の言動ととる解釈もある。

70 法師になり…寛和二年(九八六)六月廿四日義懐は花山院に殉じて出家。大鏡・栄花物語等に記事がある。

71 これと較べれば普通の惜しさというものだ。

72 おくをまつまの…「白露のおくを待つ間の朝顔は見ずぞなかなかあるべかりける」(源宗于、新勅撰集、恋三)といった朝顔の盛りにも譬えられそうにない豪勢な御様子でいらっしゃったのに。