83. かへる年の二月廿日よ日
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現代語訳 |
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かへる年の二月廿日よ日、宮の職へ出でさせ給ひし、御供にまゐらで、梅壺にのこりゐたりし、またの日、頭の中将の御消息とて、「昨日の夜、鞍馬にまうでたりしに、今宵、方のふたがりければ、方違へになんいく。まだ明けざらんに帰りぬベし。かならずいふべきことあり。いたうたたかせで待て」とのたまへりしかど、「局にひとりはなどてあるぞ。ここに寝よ」と、御匣殿の召したれば、 まゐりぬ。 |
翌年の2月25日、中宮が職の御曹司へお出かけになったが、(私は)付き添わないで、梅壺殿に残っていると、 翌日、藤原斉信殿の便りにといって、「昨日の夜、鞍馬寺に参詣に行ったが、今夜、まっすぐ帰ると不吉な方角なので、方違えに行きました。明日未明に帰るはずです。どうしても言いたいことがあります。あまり戸を叩かせないで待っていてください。」とおっしゃったけれども、定子の妹君が「局に一人でなどどうしていられよう。ここで寝なさい」とお呼びになるので、上局に参上した。 |
のこる【残る】…【自ラ四】@残る。A生き残る。死におくれる。B後世に伝わる。C〔打消の語を伴って〕もれる。ぬける。 またのひ【又の日】…【連語】次の日。翌日。 せうそこ【消息】…【名詞】@手紙。便り。A訪問すること。取り次ぎを依頼すること。【参考】「消」は死ぬ、「息」は生きるの意味で、安否などの状況の意味。 かたたがへ【方違へ】…自分の行こうとする所が陰陽道(おんようどう)で避けるべき方角に当たるとき、いったん別の方向の(知人・縁者などの)家へ行って泊まり、翌日、そこから目的地に向かうというように、災いを受ける方向へは行かないようにすること。「かたたがひ」「いみたがへ」とも。 |
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ひさしう寝起きて、下りてたれば、 「昨夜 いみじう人のたたかせ給ひし、からうじて起きて侍りしかば、『上にか。さらば、かくなんと聞えよ』と侍りしかども、よも起きさせ給はじとて臥し侍りにき」と語る。心もなの事や、と聞く程に、主殿司来て、「頭の殿の聞えさせ給ふ、『ただいままかづるを、きこゆべきことなんある』」といへば、「見るべきことありて、上になんのぼり侍る。そこにて」といひてやりつ。 |
しばらく寝て起きて、局に下りてみると、(侍女が)「昨夜人がひどく戸をお叩きになったので、辛うじて起きて応対すると、『上局におられるか。では私が来たことを伝えておくれ』と承りましたが、まさか(清少納言様を)起こすなどとは、と思って眠ってしまいました。」と言う。なんと誠意のないやり方だろうと思って聞いていると、主殿司の役人が来て、「頭中将殿が申されます、『只今、内裏から出かけるが、申し上げたいことがあるのです』」と、言うので、「用事がありまして上局へ参ります。そこで(お目にかかりましょう)」と、返事をした。 |
はべり【侍り】…【補助動詞ラ変】@〔動詞の連用形に付いて〕〜ます。〜(て)おります。▽丁寧の意を表す。A〔形容詞・形容動詞・助動詞の連用形に付いて〕〜(で)ございます。〜(で)あります。▽補助動詞「あり」の丁寧語。【自ラ変】@おそばにいる。ひかえている。お仕えする。▽「あり」「居(を)り」の謙譲語。Aあります。ございます。おります。▽「あり」「居(を)り」の丁寧語。 |
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局は、引きもやあけ給はんと、心ときめきわづらはしければ、梅壺の東面、半蔀あげて、「ここに」といへば、めでたくぞあゆみ出で給へる。 |
上局は、引いたら開けようと、心ときめき気遣いするが、梅壺殿の東側、蔀を半分上げて、「さあどうぞ」と言うと、素敵な足取りでおいでになった。 |
わづらはし【煩はし】…【形シク】@面倒だ。やっかいだ。複雑だ。A気遣いされる。気を遣う。はばかられる。けむたい。B病気が重い。 |
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桜の直衣のいみじくはなばなと、裏のつやなど、えもいはず清らなるに、葡萄染めのいと濃き指貫、藤の折枝おどろおどろしく折りみだりて、くれなゐの色、打ち目など、かがやくばかりぞ見ゆる。しろき、薄色など、下にあまた重なり、せばき縁に、かたつかたは下ながら、すこし簾のもとちかうよりゐ給へるぞ、まことに絵にかき、物語のめでたきことにいひたる、これにこそはとぞ見えたる。 |
桜がさねの直衣がたいそう華々しく、裏地のつやなども、何とも言えずきれいなのに、浅い紫色に染めた、たいそう濃い指貫に、藤の折枝の模様を豪華に織り散らして、紅色、打ち目などが、輝いて見える。白や薄紫など、下に何枚も重ね着をして、狭い縁側に、片足は地に置いたまま、少し御簾のもとに近くに寄ってきていらっしゃることこそ本当に絵にかいたり物語りの素晴らしいことなどに言うことは、まさにこういうことだと見がいもあろうというものだ。 |
えん【縁】【椽】…【名詞】家屋の外縁の、板敷きの部分。寝殿造りでは、母屋(もや)の廂(ひさし)を取り囲む形で、柱の外側に付けられる。 |
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御前の梅は、西はしろく、東は紅梅にて、すこし落ちがたになりたれど、なほおかしきに、うらうらと日のけしきのどかにて、人に見せまほし。御簾の内に、まいてわかやかなる女房などの、髪うるはしう、こぼれかかりて、などいひためるやうにて、もののいらへなえどしたらんは、いますこしをかしう、見所ありぬべきに、いとさだ過ぎ、ふるぶるしき人の、髪などもわがにはあらねばにや、所々わななきちりぼひて、おほかた色ことなる頃なれば、あるかなきかなる薄鈍、あはひも見えぬうは衣などばかり、あまたあれど、つゆのはえも見えぬに、あはしまさねば裳も着ず、袿すがたにてゐたるこそ、物ぞこなひにてくちをしけれ。 |
御前の梅は、西は白く、東は紅梅で、事実はとうに盛りを過ぎて古めかしい人が、なお美しいのに、うらうらと日光の様子がのどかで、人々に見せてみたい。御簾の内側に、まして若々しい女房などの、髪が美しく、あちこちふわふわ散らばって、などと言い煩うようで、あたりさわりもなく髪のこたえをするのは、ちょと趣深く、見どころもないようで、たいそう盛りの年齢を過ぎた、年老いた人の、髪も自分のではないので、所々髪の毛がほつれ散り乱れて、中宮方の人々はみな服色を改めているので、色の有無も不明瞭な薄鈍色の衣や、色の区別もわからない表衣などばかり、何枚も来ているが一向見栄えもしないうえに、中宮がご不在なので、袿だけを重ね、上に裳・唐衣をつけない姿でいるのは、せっかくの風情もぶち壊し、残念なことだ。 |
まほし…【助動詞シク】@〔自己の動作の実現の希望〕〜たい。A〔事態の実現の希望〕〜が望ましい。〜てほしい。▽ラ変動詞「あり」などの下に付いて。 さだ【時】…【名詞】〔多く「さだ過ぐ」の形で〕時期。機会。盛りの年齢。 わななく【戦慄く】…【自カ四】@震え動く。わなわなと震えるA楽器の音や声が震えるBざわざわと動く。ざわめく。C髪の毛がほつれる。縮れる。 ちりぼふ【散りぼふ】…【自ハ四】@散り乱れる。散らばる。A散り散りになる。離散する。落ちぶれてさすらう。 |
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「職へなむ参る。ことづけやある。いつかまゐる」などのたまふ。「さても、昨夜明かしもはてで、さりとも、かねてさいひしかば待つらんとて、月のいみじうあかきに、西の京といふ所より来るままに、局をたたきし程、からうじて寝おびれ起きたりしけしき、いらへのはしたなき」など語りて笑ひ給う。「むげにこそ思ひうんじにしか。などさる者をば置きたる」とのたまふ。げにざぞありけんと、をかしうもいとほしうもありし。 |
「これから職の御曹司へ参上する。ことづけはありませんか。あなたはいつ参上しますか。」などと言う。「それにしても昨夜、
明けもしないうちから、いくらなんでも予めああ言っておいたのだから待っていてくれるだろうと思って、月がとても明るく、西京というところに来て、代理に帰って早々局を叩いた時、やっと寝とぼけて起きてきたあの女の様子、返答のそっけなさ」などと語りお笑いになる。「まったく嫌になってしまったな。どうしてあんな女を留守に置いたのですか。」とおっしゃる。成程そうでもあったろうと、おもしろくとも、気の毒とも思った。 |
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しばしありて出で給いぬ。外より見ん人は、をかしく、いかなる人あらんと思ひぬべし。奥のかたより見いだされたらぬしろこそ、外にさる人やとおぼゆまじけれ。 |
しばらく居て出てしまわれた。外から見る人は、興深く、内にどんな美人がいるだろうと思うに違いない。もし誰かが奥の方から私の後姿を見たならば、まさか他にそれほどの美男がいようとは思いもしないことだろう。 |
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暮れぬればまゐりぬ。御前に人々いとおほく、上人などさぶらひて、物語のよきあしき、にくき所などをぞ定め、いひそしる。涼・仲忠などがこと、御前にも、おとりまさりたるほどなど仰せられける。「まづ、これはいかに。とくことわれ。仲忠が童生ひのあやしきを、せちに仰せらるるぞ」などいへば、「なにかは。琴なども、天下の下るばかり弾き出で、いとわるき人なり。帝の御むすめやは得たる」といへば、仲忠が方人ども、所を得て、「さればよ」などいふに、「このことどもよりは、晝、斉信がまゐりたりつるを見ましかば、いかにめで惑はましとこそおぼえつれ」と仰せらるるに、さて、「まことに、つねよりあらまほしくこそ」などいふ。「まづそのことをこそは啓せんと思ひてまゐりつるに、物語のことにまぎれて」とて、ありつる事のさま、語り聞えさすれば「だれも見つれど、いとかう、縫ひたる糸、針目までやは見とほしつる」とてわらふ。 |
日暮れに職の御曹司に参上した。殿上人など伺候していて、物語の優劣や感心できない点などを評定したり非難したりする。源涼、藤原仲忠などが言ったことを、中宮様までもその優劣の度合いなどを批評された。「(女房は)さて、これはどうでしょう。さあ、判断してください。宮様は
仲忠の生い立ちの賎しさを殊更に強調なさるのですよ。」などというと、「どういたしまして。涼はきんの琴(七絃)なども天人が聞き惚れるほどに弾きましたが、至ってつまらぬ人です。帝の娘を嫁にもらいましたか?」というと、仲忠びいきの人々は得意になって「そらごらんなさい」などと言う。(中宮は)「この人たちは、昼に斉信が来たのを見たら、どんなに夢中になって褒めることかと思いましたよ」とおっしゃられるので、「まことに、理想的でございました」と女房が言う。(清少納言は)「真っ先にその事を申そうと存じてまいりましたのに物語の事に紛れまして」と言って実際ありのままを語り聞かせると、「それは私たちも皆見ましたが、まあそう縫った糸や針目まで細かく見たかしら。」と言って笑う。 |
こと【言】…【名詞】@ことば。言語。Aうわさ。評判。B和歌。 せち【世知】【世智】…【名詞】@仏知に対して、俗世間の凡夫の知恵。◇仏教語。A世渡りの知恵や才覚。 |
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西の京といふ所のあはれなりつる事、「もろともにみるひとのあらまほしかばとなんおぼえつる。垣などもみな古りて、苔生ひてなん」など語りつれば、宰相の君、「瓦に松はありつるや」といらへたるに、いみじうめでて、「西の方、都門を去れる事いくばくの地ぞ」と口ずさびつる事など、かしがましきまでいひしこそをかしかりしか。 |
西の京というところのしみじみとしている事、「一緒に見る人があったらよいと覚えがある。垣根などもみな古くなって、苔むしている」など語っていると、宰相の君は、「瓦に松はあるのだろうか」と、答えるのを、たいそうほめて、「西の方、都門を捨て去ること幾許の地か」と、口ずさむことなど、女房たちがやかましい程に 斉信のことを 褒め騒いだことはまことに興味深いことだった。 |
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同じく斉信殿の回想
1かへる年… その翌年。正徳2年をさす。ただし、83段「草の庵」の事実を受けるかは不明。
2二月廿日よ日 2月20日過ぎ。史実としては25日。
3 梅壺…凝花舎(ぎょうかしゃ)代理五舎の一つ。清涼殿の西北。
4 頭の中将…前段と同じく藤原斉信。この年30歳。
5 鞍馬…鞍馬寺。京都の北方。鞍馬山の中腹。
6 方違へ…方違えは、方角を忌み、いったん他家に宿ってから目的地に出かけること。
7 御匣殿…定子の妹、道隆の第4女。御匣(みくしげ)殿(貞観殿内の再訪をつかさどる所)の別当(その長官)であった。
8 昨夜…局の留守番をした侍女の言葉。
9 上にか…頭中将の言葉。
10 半蔀…戸の上半分を蔀として吊り上げるもの。
11 桜の直衣…桜がさね。表白、裏赤・紫
12 葡萄…浅い紫色
13 藤の折枝…春曙抄に「上紋にや」とあり、地の綾紋がある上に白く藤の枝を浮き織にしたものという。
14 色ことなる…この前年(長徳元年)関白道隆が逝去し、今は服喪中のため鈍色を着用しているのである。
15 西の京…前日方違えに行った所。
京都の西部の称
16 うんじ…「うんず」は「倦みす」の音便。
17 涼…源涼。宇津保物語の主要人物。
18 仲忠…藤原仲忠。宇津保物語の主人公。
19 仲忠が童生ひのあやしき…仲忠は、幼いころ、山中の木の空洞に住み、母(俊蔭の女)を養った。宇津保物語、俊蔭の巻に見える。
20 なにかは…作者の言葉
21きんの琴…神泉苑の紅葉の賀の折のことをさす。
22御むすめ…仲忠は紅葉の賀に琴を弾じ、女一宮を賜った。
23方人…「方人」(かたうど)は味方の意。
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