桐壷 第一章 光源氏前史の物語 | |
4.母御息所の死去 | |
本文 | 現代語訳 |
その年の夏、御息所、はかなき心地にわづらひて、まかで なむとしたまふを、暇さらに許させたまはず。年ごろ、常の篤しさになりたまへれば、御目馴れて、「なほしばしこころみよ」とのみのたまはするに、日々に重りたまひて、ただ五六日のほどにいと弱うなれば、母君泣く泣く奏して、まかで させ たてまつりたまふ。かかる折にも、あるまじき恥もこそと心づかひして、御子をば留めたてまつりて、忍びてぞ出でたまふ。 | その年の夏、桐壺の更衣が、頼りない感じに病んで、退出しようとなさるのに、(帝は)暇を少しもお許しにならない。ここ数年来、いつも、この病状になっているので、お見慣れになって、「このまましばらく様子を見よ」とばかりおっしゃられているうちに、日々、重くなって、わずか五、六日のうちにひどく衰弱したので、母君が涙ながらに奏上して、退出させなさる。このような時にも、あってはならない失態をしてはならないと心配りして、御子(みこ)はお残しになって、人目につかないようにして退出なさる。 |
限りあれば、さのみもえ留めさせたまはず、御覧じだに送らぬおぼつかなさを、言ふ方なく思ほさる。いとにほひやかにうつくしげなる人の、いたう面痩せて、いとあはれとものを思ひしみながら、言に出でても聞こえやらず、あるかなきかに消え入りつつものしたまふを御覧ずるに、来し方行く末思し召されず、よろづのことを泣く泣く契りのたまはすれど、御いらへもえ聞こえたまはず、まみなどもいとたゆげにて、いとどなよなよと、我かの気色にて臥したれば、いかさまにと思し召しまどはる。輦車の宣旨などのたまはせても、また入らせたまひて、さらにえ許させたまはず。 | 留めるのにも限度があるので、お気持ちのままにお留めになることもできず、お見送りさえままならない心もとなさを、言いようもなく思われる。たいそう輝くように美しい人が、ひどく顔がやつれて、まことにしみじみと物思うことがありながらも、言葉に出して申し上げることもできずに、生き死にもわからないほどに息も絶えだえでいらっしゃるのを御覧になると、あとさきもお考えにならず、すべてのことを泣きながらお約束あそばされるが、お返事を申し上げることもおできになれず、まなざしなどもとてもだるそうで、いっそう弱々しく、意識もないような状態で臥せっていたので、どうしたらよいものかとお思いになる。勅命の輿の宣旨などを仰せ出されても、再びお入りになっては、どうしてもお許しあさばされることができない。 |
「限りあらむ道にも、後れ先立たじと、契らせたまひけるを。さりとも、うち捨てては、え行きやらじ」 とのたまはするを、女もいといみじと、見たてまつりて、 「限りとて別るる道の悲しきに いかまほしきは命なりけり いとかく思ひたまへしかば」 と、息も絶えつつ、聞こえまほしげなることはありげなれど、いと苦しげにたゆげなれば、かくながら、ともかくもならむを御覧じはてむと思し召すに、「今日始むべき祈りども、さるべき人びとうけたまはれる、今宵より」と、聞こえ急がせば、わりなく思ほしながらまかでさせたまふ。 |
「死出の旅路にも、お互いに先立ったりするまいと、お約束しましたものを。そうだとしても、おいてけぼりにしては、行ききれまい」 と仰せになるのを、女もたいそう悲しいと、お顔をご覧になって、 「人の命には限りがあるものと、今、別れ路に立ち、悲しい気持ちでいますが、わたしが行きたいと思う路は、生きている世界への路でございます。ほんとうにこのようにと存じておりましたならば」 と、息も絶えだえに、申し上げたそうなことはありそうな様子であるが、たいそう苦しげでだるそうなので、このままの状態で、最期となってしまうようなこともお見届けしたいと、お考えになるが、「今日始める予定の祈祷などを、しかるべき僧たちの承っておりますのが、今夜から始めます」と言って、せき立て申し上げるので、やむを得なくお思いになりながら退出させなさる。 |
御胸つとふたがりて、つゆまどろまれず、明かしかねさせたまふ。御使の行き交ふほどもなきに、なほいぶせさを限りなくのたまはせつるを、「夜半うち過ぐるほどになむ、絶えはてたまひぬる」とて泣き騒げば、御使もいとあへなくて帰り参りぬ。聞こし召す御心まどひ、何ごとも思し召しわかれず、籠もりおはします。 | お胸がひしと塞がって、少しもうとうとなされず、夜をお明かしになる。勅使が行き来する間もないうちに、しきりに晴れないお気持ちをこの上なくお漏らしあそばしていらしたところ、「夜半少し過ぎたころに、お亡くなりになりました」と言って泣き騒ぐので、勅使もたいそうがっかりして帰参した。お耳に入った御心の転倒、どのような御分別をも失われて、引き籠もっておいであそばす。 |
御子は、かくてもいと御覧ぜまほしけれど、かかるほどにさぶらひたまふ、例なきことなれば、まかでたまひなむとす。何事かあらむとも思したらず、さぶらふ人びとの泣きまどひ、主上も御涙のひまなく流れおはしますを、あやしと見たてまつりたまへるを、よろしきことにだに、かかる別れの悲しからぬはなきわざなるを、ましてあはれに言ふかひなし。 | 御子は、それでもとても御覧になっていたいが、このような折に宮中に伺候していらっしゃるのは、先例のないことなので、退出なさろうとする。何事があったのだろうかともお分かりにならず、お仕えする人々が泣き惑い、父主上もお涙が絶えずおこぼれあそばしているのを、変だなと御覧になっているのを、普通の場合でさえ、このような別れの悲しくないことはない次第なのを、いっそうに悲しく何とも言いようがない。 |
1はかなき【果無し・果敢無し】…【形ク】①頼りない。むなしい。あっけない。②ちょっとしたことだ。何ということもない。③幼い。たわいない。④粗末だ。取るに足りない。ここでは①の意。 2わづらひ【煩ふ】…【自ハ四】①苦しむ。悩む。困惑する。②病気になる。病む。③煩わしい思いをする。苦労する。難儀する。手間をかける。ここでは②の意。 3まかで【罷づ】…【自ダ下二】①退き去る。退出する。おいとまする。▽「退く」「去る」の謙譲語。②出ます。参ります。出かけます。▽「行く」「出(い)づ」の丁寧語。ここでは①の意。 4なむ…【連語】①…てしまおう。必ず…しよう。▽強い意志を表す。②…てしまうだろう。きっと…するだろう。確かに…だろう。▽強い推量を表す。③…ことができるだろう。…できそうだ。▽実現の可能性を推量する。④…するのがきっとよい。…ほうがよい。…すべきだ。▽適当・当然の意を強調する。⑤〔係助詞「や」を伴って〕(ア)…するつもりはないか。…てくれないか。▽相手の意向を問う。(イ)…できるだろうか、いや…できないだろう。▽反語の意を表す。ここでは①の意。 5年ごろ【としごろ】【年頃】…【名詞】①長年の間。長年。数年間。数年来。②年かっこう。年ごろ。ここでは①の意。 6篤しさ【あつし】【篤し】…【形シク】病気が重い。病気がちである。「あづし」とも。 7奏し【そうす】…【他サ変】①(天皇・上皇・法皇に)申し上げる。奏上する。▽「言ふ」の謙譲語。②音楽を演奏する。ここでは①の意。 8まかで【罷づ】…【自ダ下二】①退き去る。退出する。おいとまする。▽「退く」「去る」の謙譲語。②出ます。参ります。出かけます。▽「行く」「出(い)づ」の丁寧語。ここでは①の意。※参考【他ダ下二】貴人のもとから、物などを下げる意の謙譲語。お下げする。 9させ【さす】…【助動下二】《接続》四段・ナ変・ラ変以外の動詞の未然形に付く。①〔使役〕…せる。…させる。②〔尊敬〕お…になられる。…なさる。…あそばす。▽尊敬の意を表す語とともに用いて、より高い尊敬の意を表す。③〔受身〕…られる。《語法》(1)尊敬の「さす」(主として中古・中世)②の意味は、他の尊敬語が併せ用いられた場合に限られる。そのうち、「させ給(たま)ふ」「させおはします」が地の文に用いられたとき、これは最高敬語といわれ、天皇・皇后や、それに準ずる人の動作をいうのに用いられる。⇒最高敬語(2)受身の「さす」③は「軍記物語」の合戦の場面に見られる特殊な用法で、武士が「…される」という受身の表現を嫌うあまり、「…させてやる」という態度を示したもので、「武者(むしや)言葉」ともいう。《注意》(1)単独で用いられる「さす」は使役である。(2)「させ給(たま)ふ」には二とおりあり、「…に」に当たる受身の対象の人物が文脈上存在する場合は使役、そうでない場合は最高敬語(二重敬語)と見てよい。⇒させたまふ《参考》「さす」と同じ意味・用法の助動詞「す」は四段・ナ変・ラ変動詞の未然形に付く。ここでは①の使役。 10たてまつりたまふ…【連語】①〔「奉る」が謙譲の場合〕差し上げなさる。献上なさる。②〔「奉る」が尊敬の場合〕お乗りになる。③〔「奉る」が謙譲の補助動詞の場合〕お…申し上げなさる。ここでは③の意。 11限り…【名詞】①限界。限度。②極限。最大限。③あいだ。うち。④全部。すべて。⑤最後。果て。臨終。⑥時期。機会。⑦それだけ。そればかり。 12にほひやか【匂ひやか】…【形動ナリ】「やか」は接尾語。「にほやか」とも。輝くように美しいさま。つやつやと美しいさま。(赤く)鮮やかに色づいているさま。 13人の…「の」は指定で、「人で(にて)」 14たゆげ…【形動ナリ】だるそうだ。 15いぶせさ…【名詞】①晴れない気持ち。うっとうしいこと。②不潔さ。不快さ。③恐ろしさ。気持ち悪さ。 |
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